第19話 鏡の名を持つ研究
「九代目、こちらへ」
研究員に呼ばれ、玲は施設の地下、普段は立ち入ることのない一角へと足を運んだ。
分厚い扉の奥、無菌室のような空間の中央に、それは安置されていた。
古びた鏡だった。ガラスケースの中、青白い照明に照らされ、静かに佇んでいる。
「これは……」
「YT-03。此度、初めて九代目にもお見せするよう、讓治様から許可が出ました」
研究員の言葉に、玲は鏡へと視線を戻した。表面は曇り、経年劣化が見て取れる。だが、その奥には、確かに何か──言葉にできない気配が、静かに宿っているように感じられた。
「正体を映す力、と聞いていますが」
「ええ。理論上は、対象の真の姿、あるいは隠された本質を映し出す、とされています。……ただ」
研究員は、少し言い淀んだ。
「解析は、完了しているはずなんです。構造も、成分も、すべて数値化されている。なのに、実際に稼働させようとすると、うまく作動しない」
「作動しない?」
「はい。理論通りに動かないんです。理由は、まだ分かっていません」
玲は、その言葉に、どこか既視感を覚えた。自分自身の因子も、同じだった。解析されつくしているはずなのに、実際には、いつも予測を裏切る動きをする。
「触れてみても?」
「――九代目、あまりお勧めは」
「大丈夫だ」
玲は、研究員の制止も聞かず、ガラスケースに手をかけた。ロックを解除し、鏡の縁に、そっと指先を触れさせる。
その瞬間、玲の脳裏に、鮮烈な感覚が走った。
(――誰かの、記憶)
海辺の景色。子供の笑い声。誰かと交わした、小さな約束。
だが、その映像は、輪郭を結ぶ前に、霧散するように消えていった。
「九代目!」
研究員の声で、玲は我に返った。額に、じっとりと汗が滲んでいる。
「今、何か……」
「……いや、何でもない」
玲は、鏡から手を離した。だが、脳裏に浮かんだあの断片的な映像が、いつまでも消えずに残っていた。
その夜、玲は自室で、一人考え込んでいた。
(あれは、誰の記憶だったんだ)
海辺の景色。あの陸という男と、どこか重なる気配があった。だが、それが具体的に何を意味するのか、玲には分からなかった。
コンコン、とノックの音。
「九代目、よろしいですか」
入ってきたのは、鷹宮だった。
「珍しいですね、こんな時間に」
「YT-03に触れたそうね」
鷹宮の声は、いつもより硬かった。玲は、少し身構えた。
「はい。何か、問題がありましたか」
「……いいえ。ただ、気になってしまって」
鷹宮は、部屋の中を、ゆっくりと見渡した。
「あの鏡は、正体を映す。今のあんたに、何が映ったのか──それが、ちょっと気になっただけよ」
その言葉に、玲は返す言葉を失った。
「……はっきりとは、分かりません。ただ、誰かの記憶のようなものが、断片的に」
「誰かの記憶、か」
鷹宮は、そう呟くと、小さく息を吐いた。目元に、ふと、何かをこらえるような色が浮かんだ。
「玲」
いつもの「九代目」ではなく、初めて名前で呼ばれ、玲は驚いて顔を上げた。
「無理に、思い出そうとしなくていいの。今はまだ、その時じゃないから」
「鷹宮さんも、何か知ってるんですね」
鷹宮は、答えなかった。ただ、そっと目を伏せ、静かに部屋を出ていった。その背中は、いつもより、少しだけ小さく見えた。
一人残された玲は、窓の外、遠くの街明かりを見つめながら、胸の奥に残る、あの海辺の景色の残像を、いつまでも反芻していた。
(第20話へ続く)




