第8話 荒野の文句大会と、四十年コース決定
中巻開始です。
海を割って助かった民は、三日で文句を言い始めます。そして約束の地を目前にして、四十年コースが確定します。
問題は移動距離ではありません。だいたい人間です。
プロローグ ~ 旅の出発点 ~
前巻のあらすじを三行で。
神が世界を作った。人間はすぐ失敗した。ヘブライ人はエジプトで奴隷になった。
モーセという男が神に呼ばれて百万人規模の民族を解放した。海が真っ二つに割れた。砂漠に出た。
以上だ。
そして今、数百万人のヘブライ人が荒野のど真ん中にいる。
前には砂漠。後ろにはエジプト。目指す約束の地カナンまでは、直線距離にしてせいぜい数百キロだ。現代なら車で数時間。歩いてもがんばれば二週間あれば着く。
では、なぜ彼らはここから四十年かかるのか。
その答えは、この中巻を読み終えた頃に自然とわかるだろう。
ヒントだけ言っておくと――問題は「距離」ではなく「人間」にある。
第一章 ~ 荒野の文句大会、開幕 ~
シナイ山のふもとを出発して三日目のことだった。
「水が苦くて飲めない!」
先頭を歩いていた民の一人が叫んだ。たちまち声が広がった。
「水がない!」「喉が渇いた!」「モーセのせいだ!」
三日。たった三日だ。
出発前、モーセは民に何度も何度も言い聞かせていた。「神がともにいる。恐れるな」と。
その言葉が三日で吹き飛んだ。
神はモーセに一本の木を示し、苦い水に投げ込ませた。水は甘くなった。
問題解決。
三日後にはまた別の文句が出た。今度は食べ物だ。
「エジプトでは魚をただで食べていた! きゅうりも! すいかも! ねぎも! 玉ねぎも! にんにくも! なのに今は目の前にマナしかない!」
マナというのは、毎朝地面に降りてくる白い食べ物のことだ。蜂蜜入りのウェハースのような味がする。神が毎朝用意してくれる、言わば空から降ってくるお弁当だ。
それを「しかない」と言う。
モーセはこの時点でかなり限界に近かったらしい。
神に直接こう訴えている。
「なぜこんな民の重荷をわたしに負わせるのですか。わたしがこの民を妊んだのですか。わたしが生んだのですか。一人で全員の面倒など見られません。こんな扱いが続くなら、いっそわたしを殺してください。みじめさを見ていたくない」
神は優しく答えた。「長老七十人を選んで重荷を分けなさい」
そして肉も用意することにした。ただし、神はひとこと付け加えた。
「一ヶ月間、肉を食わせてやる。耳からあふれ出て嫌になるほど食わせてやる。肉を求めてわたしを侮ったことへの答えとして」
どこか怖い。
翌日、海の方から風が吹いてきた。うずらが大量に運ばれ、宿営の周り一帯に降り積もった。地面から一メートルの高さで山になるほどだ。
民は夢中でうずらを集めた。食べ始めた。
その瞬間、神の怒りが燃え上がり、疫病が起きた。
「肉が歯の間にある間に」と聖書は記している。
その場所は「欲望の墓」と名付けられた。
文句を言って要求を通しても、ろくなことにならない。
これが荒野の基本ルールだ。
だが民はこのルールを、この後も四十年かけて何度も学び直すことになる。
第二章 ~ 偵察隊の報告 ~ 希望と絶望の分かれ目 ~
そうこうするうちに、ついにカナンの地が近づいてきた。
神はモーセに言った。「各部族から一人ずつ偵察隊を出せ」
十二人の精鋭が四十日間、カナンの地を隅々まで歩いて調べ、帰ってきた。
荷物は重そうだった。一番目を引いたのは、二人で棒に担いでいる葡萄の房だ。一房が二人がかりで運ぶほど大きい。それだけ豊かな土地ということだ。
「報告します」
十二人の代表者が前に出た。
「その地はすばらしいです。乳と蜜が流れています。果物もこの通り豊かです」
民がざわめいた。期待の声が上がる。
「ただし――」
全員が静まった。
「住民は強大です。町は城壁に囲まれた要塞です。それも非常に大きい。さらに、アナクの子孫もいました」
アナクの子孫とは、伝説的な巨人族のことだ。
「自分たちはいなごのように小さく見えました。相手から見れば、我々もそう見えたでしょう」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、宿営が揺れるほどの叫び声が上がった。
「エジプトで死んでいればよかった!」
「この荒野で死ぬほうがましだ!」
「カナンに攻め込んで剣で殺される前に! 女子供が奪われる前に! エジプトに帰ろう!!」
新しいリーダーを選んでエジプトに帰ろう、という声まで上がった。
四百年以上苦しめられた奴隷の地に、今すぐ戻ろうという話だ。
十二人の偵察隊のうち、二人が前に出た。
カレブとヨシュアだ。
カレブが叫んだ。
「落ち着け! その地は確かに良い地だ! 神がともにいるなら必ず入れる! 彼らは我々の食い物だ! 恐れるな!」
民の反応は――「その二人を石で打て!」だった。
沈黙。
そこに神が現れた。
「この民はいつまでわたしを侮るのか」
神の声に、宿営全体が静まり返った。
「疫病で打ち滅ぼし、あなた(モーセ)から新しい民を起こそうか」
モーセはすかさず神に食い下がった。
「神よ、お待ちください。エジプト人がそれを聞いたら何と言いますか。『あの神は約束の地に連れていく力がなかった。だから荒野で殺した』と言いますよ。神の名誉のためにも、どうか赦してください」
神はため息をつくように言った。
「……赦そう」
しかし条件がついた。
「この世代の者たちは、わたしが誓った地を見ない。偵察に四十日かけたから、四十年間荒野を旅させる。今いる二十歳以上の全員が荒野で死ぬまで」
静寂。
「カレブとヨシュアは別だ。この二人だけが入る」
「大丈夫、行けます」と言った二人だけが、四十年後にカナンに入ることになった。
「無理だ、死ぬ」と言った者は、本当に荒野で死んだ。
言葉は現実を作る。旧約聖書が繰り返し示すテーマのひとつだ。
なお、「無理だ」と言った偵察隊の十人は、その場で疫病で死んだ。
翌朝、民は言った。
「やっぱりカナンに攻め込む! 神に逆らったのは間違いだった!」
モーセが止めた。「もう神はともにいない。行くな。負ける」
民は聞かなかった。
完全に負けた。




