第3話 アブラハム、神との約束に巻き込まれる
ここから物語は、一人の男アブラハムへ絞られていきます。
世界全体の話から、選ばれた家族の話へ。
ただし、選ばれたから楽になるとは限りません。むしろ試練の始まりです。
ここから物語は一気に絞り込まれる。
全人類の話から、一人の男の話へ。
その男の名はアブラム(後にアブラハムと改名)。
メソポタミアのウルという都市の出身。家族とともにカナンの地を目指して移住中——そこに神が現れた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」
理由は特にない。突然の召命。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくする」
アブラムは七十五歳だった。
七十五歳で「故郷を捨てて旅に出ろ」と神に言われ——アブラムは従った。
妻サライ(後にサラ)、甥のロト、持ち物全部を持って出発。
七十五歳で人生をリスタート。
カナンの地に着いた。神が言った。「この地をあなたの子孫に与える」
子孫?
アブラムには子がいなかった。サライは不妊だった。
「子孫に与える」と言われても子がいない——これがこの後、長く続く「信仰のドラマ」の核心だ。
やがてエジプトに飢饉を避けて行くことになるが、そこで問題が起きた。
「エジプトに入ったら、あなたは美しい。エジプト人が『あの女はあいつの妻だ、殺してでも奪おう』と言って俺を殺すかもしれない」
アブラムはサライに頼んだ。
「妹だと言ってくれ」
——妻を妹と偽って差し出す。
サライは確かに美しかった。エジプトのファラオも注目し、彼女を宮廷に入れた。アブラムは「妹のサライのおかげで」多くの財産をもらった。
しかし神はファラオの家に大きな災いをくだした。
ファラオはアブラムを呼んで言った。「なぜ彼女が妻だと言わなかったのか! なぜ妹と言ったのか! 連れ帰れ!」
怒るファラオは正しい。悪いのはアブラムだ。
だが聖書はアブラムを批判しない。不思議なことに。
旧約の神は時に「なぜこの人が?」と思うような選び方をする。アブラムはここで明らかにやらかしているが、それでも神に選ばれた男だ。
人間の弱さと、それでも神が用いるという逆説。
これもまた旧約のテーマだ。
甥のロトはカナンからソドムのある平野に移り住んでいた。
ソドムとゴモラという二つの町——ここが問題だった。
神はアブラハムに言った(名前が変わっている)。
「ソドムとゴモラの叫びはまことに大きく、その罪はきわめて重い。わたしは降りて行って、届いた叫びどおりのことをしているのかどうか、確かめよう」
アブラハムは恐る恐る神に話しかけた。
「もし町に正しい人が五十人いるなら、滅ぼしますか?」
「五十人いれば滅ぼさない」
「……四十五人だったら?」
「滅ぼさない」
「四十人は?」
「滅ぼさない」
「三十人は?」
「滅ぼさない」
「二十人は?」
「滅ぼさない」
アブラハムは深呼吸をした。
「怒らないでください……十人は?」
「十人のために滅ぼさない」
ここでアブラハムは引いた。これ以上値引き交渉はできないと判断した。
神との価格交渉。
結果——ソドムに十人の正しい人はいなかった。
神はソドムとゴモラに「硫黄と火を降らせ」た。
ロトは天使に手を引かれてかろうじて脱出した。その際、天使から「後ろを振り返るな」と言われた。
フラグが立った。
ロトの妻は振り返った。
塩の柱になった。
「見るな」の禁令——イザナギ・イザナミ以来、どの神話でも必ず誰かが破る。
人類は「見るな」と言われると必ず見る。これはどの文化圏でも共通する人類の特性だ。
アブラハムはついに子を授かった。
百歳の時に。
妻サラは九十歳だった。
子の名はイサク。
神が「子孫を増やす」と約束してから二十五年。ようやく生まれた跡継ぎ。アブラハムとサラの喜びはいかほどだったか。
そして——神が言った。
「あなたの子、あなたの愛し子イサクを連れてモリヤの地に行き、そこでわたしが示す山の上で、全焼のいけにえとして捧げよ」
我が子を生け贄に捧げよ。
アブラハムは翌朝早く起きた。ロバに鞍を置き、薪を割り、イサクと召使い二人を連れて出発した。
何も言わずに。
旅は三日間。
山が見えたとき、アブラハムは召使いに言った。「ここで待て。わたしと子は向こうに行って礼拝して、戻ってくる」
——「戻ってくる」と言った。子を捧げるのに「戻ってくる」と言った。
イサクは薪を担いだ。アブラハムは火と刃物を持った。
イサクが言った。「お父さん、火と薪はあるけど、生け贄の羊はどこ?」
アブラハムは答えた。
「神がご自分のために羊を備えてくださる、わたしの子よ。」
二人は一緒に歩いた。
山の上に着いた。祭壇を築いた。薪を並べた。
アブラハムはイサクを縛り、祭壇の薪の上に置いた。
刃物を手に取った。
——その瞬間。
「アブラハム、アブラハム!」
天から声がした。神の使いだ。
「子供に手を下してはならない。今わかった——あなたが神を恐れる者であることが。あなたはひとり子を惜しまなかった」
アブラハムが目を上げると、後ろに——雄羊が茂みにかかっていた。
アブラハムはその羊を捧げた。
神はアブラハムを祝福した。「あなたの子孫は数えきれないほど増え、敵の門を勝ち取る。地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福される」
この話を「神に残酷な命令を下す神」と読む人もいる。
だが別の読み方もある。
神は最初から「生け贄を捧げさせる気がなかった」。
当時の周辺文化では子供を神に捧げることが行われていた。神はアブラハムを試しながら、同時に「子供の人身御供は不要だ」というメッセージを歴史に刻んだ。
それがこの物語の神学的な意味だ——と解釈する者もいる。
謎は深い。それが旧約聖書だ。




