第20話 エステル、帰還、そして旧約聖書の終わり
下巻最終話です。
エステルの「このような時のために」、バビロン捕囚からの帰還、そして全三巻の締めに入ります。
長かった旧約聖書ギャグラノベも、ようやく荒野から帰還します。
第十四章 ~ エステル ~ 隠された名前の神 ~
エステル記は旧約聖書の中で少し変わった本だ。
「神」という言葉が一度も出てこない。
それでも、神の働きが行間から見える。
ペルシャ王アハシュエロスは酒宴の席で妃ワシュティを呼んだ。ワシュティは来なかった。
王は怒り、ワシュティを廃位した。
新しい妃を全国から選ぶことになった。
そこで選ばれたのが、ユダヤ人の孤児エステルだ。
叔父モルデカイに育てられていた。
エステルは美しく、王の目に止まり、妃になった。
ただしユダヤ人であることは隠していた。
しばらくして、王の宰相ハマンという男が権力を持った。
ハマンは偉くなると、自分にひれ伏すよう命令した。
モルデカイはひれ伏さなかった。
ハマンは激怒した。
「モルデカイ一人を殺すより、ユダヤ人を全部滅ぼしてやる」
ハマンは王に進言した。
「帝国の中に、王の法律に従わない民族がいます。滅ぼすことを許してください。銀一万タラントを国庫に払います」
王は気にせずサインした。
全国にユダヤ人を全員殺すという令状が出た。
モルデカイはエステルに伝えた。
「今こそあなたが王妃になった意味がある。黙っているなら、助けは別の方向から来るかもしれないが、あなたと父の家は滅ぶ。もしかしたら、このような時のためにあなたは王妃になったのではないか」
エステルは言った。
「王に呼ばれずに近づく者は死刑です。王が金の杖を差し伸べてくれた者だけ生きられます。ここ三十日、わたしは呼ばれていません」
モルデカイは言った。「それでも行け」
エステルは言った。
「三日間断食してください。わたしも侍女と断食します。その後、王のところへ行きます。死ぬなら死にます」
三日後、エステルは王の前に立った。
王が金の杖を差し伸べた。
「何を望むのか。国の半分でも与えよう」
「まず宴会にハマンとご一緒においでください」
宴会の席で、エステルは涙ながらに言った。
「王よ、もし王の前に恵みを得ているなら、命を与えてください。民を与えてください。わたしも、わたしの民も、滅ぼされ、殺され、根絶やしにされることになっているのです」
「誰がそんなことをした!」
「この悪人、このハマンです!」
ハマンは震えた。
王は怒って庭に出た。
ハマンはエステルに命乞いをした。
王が戻ってきた時、ハマンはエステルの寝椅子に倒れかかっていた。
「妃を辱めるつもりか!」
ハマンは終わった。
そしてユダヤ人たちは救われた。
神という言葉は出てこない。
しかし「このような時のために」という言葉が残る。
どんな困難の中にも「このような時のために」という目的があるかもしれない。それが見えないとしても。
これがエステル記の静かな問いかけだ。
第十五章 ~ バビロン捕囚からの帰還 ~
北イスラエルがアッシリアに滅ぼされてから百年ほど後。
今度は南ユダ王国が、バビロニア帝国に滅ぼされた。
エルサレムの神殿が燃やされた。
ダビデ以来の王族が連れ去られた。
民は異国の地、バビロンで泣きながら座っていた。
詩篇百三十七篇にこんな詩がある。
「バビロンの川のほとりに座って、シオンを思いながら泣いた。柳の木に竪琴を掛けた。捕らえた者たちが歌を求めた。どうやって異国で神の歌が歌えるか」
七十年が過ぎた。
預言者エレミヤが「七十年で帰れる」と預言していた通り、事態が動いた。
ペルシャ王キュロスがバビロニアを滅ぼし、帝国を手に入れた。
そしてキュロスは宣言した。
「地の全ての王国を神が与えてくださった。神はわたしに、エルサレムに神殿を建てよと言われた。帰りたい者は帰れ。費用はわたしが出す」
異国の王が、神殿の再建を命じた。
ヘブライ人たちが帰り始めた。
エルサレムに着いた人々は、昔の神殿の跡を見て泣いた。
若い者は新しい基礎が置かれると喜んで叫んだ。
老いた者は昔の神殿を覚えていて、大声で泣いた。
喜びの声と泣き声が混ざり合って、遠くから聞いても区別できなかった。
神殿が建て直された。
エズラという人物が律法の書を持ち帰り、民の前で読み上げた。
民は泣いた。
エズラは言った。
「今日は聖なる日だ。泣いてはならない。神を喜ぶことがあなたたちの力だ」
「神を喜ぶことが力だ」
この一言が、旧約聖書の後半部分を貫く言葉のひとつだ。
楽しいから喜ぶのではなく。
順調だから喜ぶのでもなく。
神がいるから喜ぶ。
それが力になる。
バビロン捕囚から帰還した人々は、その後もずっと強い国を作ることはできなかった。ペルシャ、ギリシャ、ローマと、次々と大国の支配下に入り続けた。
それでも神を礼拝し続けた。
律法を守り続けた。
神の約束を信じ続けた。
旧約聖書の物語は、ここで一つの区切りを迎える。
エピローグ ~ 旧約聖書とは何だったのか ~
三巻を通して振り返ろう。
上巻では、神が世界を作り、人間はすぐに失敗し、洪水でリセットされ、アブラハムという一人の男が選ばれ、その子孫が奴隷になり、モーセが登場した。
中巻では、奴隷から解放された人々が荒野を四十年さまよい、約束の地に入り、士師たちに繰り返し救われながらも繰り返し同じ失敗を続けた。
下巻では、王国が誕生し、栄えて、分裂して、滅んで、捕囚になって、帰ってきた。
これだけ読むと「散々な歴史」に見える。
失敗の連続だ。同じことの繰り返しだ。
だがここで気づいてほしいことがある。
この物語を書いたのは、誰か。
ヘブライ人自身だ。
自分たちの失敗を、自分たちで書き残した。
「わたしたちは神に背いた。だから滅んだ」と、自ら記録した。
これは普通の民族の歴史書ではない。普通は「俺たちは正しかった。悪いのは敵だ」と書く。
ヘブライ人はそうしなかった。
「わたしたちが悪かった」と書いた。
そして同時に「それでも神は諦めなかった」と書いた。
これが旧約聖書の核心だ。
人間の失敗の記録ではなく、神の諦めなさの記録だ。
ダビデは姦淫と殺人をした。それでも「神の心にかなった人」と呼ばれた。
サムソンは欠点だらけだった。それでも神に使われた。
エリヤは疲れ果てて「もう死にたい」と言った。神は細い声で現れて食事を作った。
ヨブは「なぜ苦しむのか」と叫び続けた。神は嵐の中から現れ、問いを問いで返した。それでもヨブは「今わたしはあなたを見た」と言った。
旧約聖書は「完璧な人間の物語」ではない。
「欠点だらけの人間と、諦めない神の物語」だ。
最後に、旧約聖書の中で最も美しい言葉の一つを引いて終わろう。
預言者イザヤの言葉だ。
「主は疲れた者に力を与え、力のない者を強くされる。若者も疲れ、若い男もつまずき倒れる。しかし主を待ち望む者は新しく力を得る。鷲のように翼をはって上ることができる。走っても疲れず、歩いても弱らない」
旧約聖書は「正しい人が祝福される話」ではなかった。
「どこまでも失敗する人間を、神が何度も立ち上がらせる話」だった。
それが三千年以上読み継がれている理由だと、わたしは思う。
以上で、旧約聖書ギャグラノベ全三巻、完結だ。




