エピローグ_優しさに沈む夜
あのお茶会から数時間が過ぎ、夜の帳がすっかり公爵邸を包み込んでいました。
夕食の席には、いつものように王都の一流料理人にも引けを取らない、目にも鮮やかな豪奢な料理が並んでいました。
しかし、わたしの喉はひどく細くなってしまったかのように、温かいスープを数口すするのがやっとでした。
ノルディアのジュリアン王子が、娼館で男性器を切り取られて殺されたという、あの凄惨な報告。
そして、その猟奇的な事件の裏に、愛する夫の影を感じてしまったあの底知れぬ恐怖が、胃の奥に鉛のように居座っていたからです。
子供たちはレインハルト様の配慮により、別室で乳母たちと食事をとらせていたため、広いダイニングには、カチャリという銀の食器の音だけが不自然に響いていました。
「……シャルロット。お腹が空いていないのかい?」
ふいに、テーブルの向こう側から優しく穏やかな声がかけられました。
顔を上げると、レインハルト様が心配そうな、そして微かに眉を下げた慈愛に満ちた表情でわたしを見つめていました。
わたしの沈黙と、いつもより青い顔色を、この聡明な夫が見逃すはずがありません。
「ごめんなさい、レインハルト様。少し、お昼のお菓子を食べ過ぎてしまったようで……」
「そうか。無理をして食べることはないよ。温かいハーブティーでも淹れさせようか」
「……いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
引きつりそうになる頬を必死に持ち上げ、わたしはなんとか微笑みを返しました。
レインハルト様はそれ以上追及することなく、ただ静かに立ち上がると、わたしの傍へと歩み寄ってこられました。
そして、わたしの肩をふわりと抱き寄せ、その大きな手でわたしの冷たくなった頬を優しく包み込みました。
「君の手は、こんなにも冷たくなっている。お昼の恐ろしい話が、まだ君の心を怯えさせているのだね」
「……っ」
「僕の配慮が足りなかった。君のような純真で心優しい女性の耳に、あのような下劣で残酷な話を入れるべきではなかったんだ」
彼の低い声が、耳元で甘く響きます。
その声には、自分自身を責めるような響きすら含まれていました。
わたしは小さく首を振り、彼の温かい胸にそっと身を預けました。
彼から漂う、清潔な石鹸と微かな香木の香りが、張り詰めていたわたしの神経を少しだけ解きほぐしてくれます。
「さあ、お風呂に入ろう。温かいお湯に浸かれば、きっと悪い夢も洗い流せるはずだ。今日は僕が、君の髪を洗ってあげるよ」
レインハルト様はわたしを軽々と抱き上げ、そのまま浴室へと向かって歩き出しました。
普段から甘やかしてくれる方ですが、今夜の彼は、まるで壊れ物を扱うかのように、いつも以上に優しく、そして徹底的にわたしを甘やかそうとしてくれているのが分かりました。
大理石で作られた豪奢な浴室には、すでにたっぷりと温かいお湯が張られており、カモミールとラベンダーの香油が甘く心を落ち着かせる香りを漂わせていました。
湯船の中で、わたしは彼の大きな体の前に座り、背中を預けるようにして寄りかかりました。
彼の厚い胸板と、逞しい腕がわたしをすっぽりと包み込み、絶対的な安全地帯を作り出してくれます。
ちゃぷり、と柔らかなお湯の音が響く中、彼の大きな手が、わたしの髪にゆっくりとお湯をかけていきました。
「お湯の温度はちょうどいいかな」
「はい……とても、気持ちがいいですわ」
彼の指先が、頭皮をマッサージするように優しく滑っていきます。
首筋から肩にかけて、凝り固まっていた筋肉をゆっくりと解きほぐすように揉みほぐされ、わたしは思わずほうっと甘い吐息を漏らしてしまいました。
「君は、本当に美しい。僕の人生のすべてを懸けて守り抜くべき、ただ一つの宝物だ」
レインハルト様は濡れたわたしの肩に口付けを落とし、耳元でそう囁きました。
その言葉の重みに、再び胸の奥がチクリと痛みました。
彼の愛は、本物です。
わたしを愛し、わたしを守るためならば、彼はどんなことでもやってのけるでしょう。
たとえそれが、他国の王子を社会的に抹殺し、その命を最も残酷な方法で奪い去るという、血塗られた手段であったとしても。
***
火照った身体をふかふかのガウンに包み、わたしは寝室の鏡台の前に座りました。
レインハルト様はわたしの背後に立ち、柔らかいタオルでわたしの薄紫色の髪を優しく包み込みます。
水滴を吸い取るように、ぽんぽんと丁寧に叩いていくその手つきは、相変わらず慎重で、愛情に満ちていました。
鏡越しに目が合うと、彼の理知的な瞳が甘く細められます。
鏡に映るわたしの緋色の瞳――彼が星屑を砕いた輝きだと讃え、狂おしいほどに愛してくれるこの瞳には、まだ微かな怯えの色が残っていたのかもしれません。
彼はタオルを置くと、今度は象牙の櫛を手に取り、わたしの薄紫の髪をゆっくりと梳き始めました。
するり、するりと、絡まった糸を解くように、彼の優しい手つきがわたしの心にまとわりつく恐怖までをも解いていくようです。
「まだ、震えているね」
髪を乾かし終えると、彼は鏡台の前に膝をつき、わたしの両手を下からそっと包み込みました。
そして、わたしの指先をそっとすくい上げ、ひとつひとつの指先に、触れるだけの鳥の羽のような口づけを落としていきました。
そのくすぐったくも熱い感触に、わたしは思わず身をよじりそうになりますが、彼は逃さないようにしっかりと、けれど優しくわたしの手を掴んだままです。
「あ……。少し考えすぎてしまって……」
わたしが震える声でそう告げると、レインハルト様はわたしの手の甲に額を押し当て、深く静かな溜息をつきました。
「君のような汚れを知らない人に、あんな俗悪な現実を想像させてしまったことが悔しいよ。だが、もう終わったことだ。あの愚かな王子の死は、自らの放蕩が招いた結果に過ぎないのだから」
彼は顔を上げ、わたしの緋色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しました。
その金色の瞳には、一切の嘘も、やましさも浮かんでいません。
ただ、わたしを安心させようとする、夫としての深い慈愛だけがありました。
「どうやらとても気が強い女性だったようだね、殿下もお可哀そうなことだ」
まるで、本当にただのゴシップ話を耳にしたかのような、他人事の響きでした。
彼自身、ジュリアン王太子に眠らされ、妻であるわたしを犯されかけたのですから、内心本当になにも感じてはいないのでしょう。
ただ、彼の差し出すこの底なしに甘く、安全で、狂おしいほどの愛の中だけで生きることを、彼はわたしに望んでいるのです。
彼の言葉も、彼の口付けも、彼のこの徹底的な甘やかしも。
この美しくも恐ろしい黄金の檻の中で、わたしが余計な不安を抱かないように、彼の愛情で塗り固めようとしている。
彼がどれほど恐ろしい裏の顔を持っていようと、わたしに向けられるこの優しさと体温だけは、紛れもない真実なのです。
わたしを傷つけるものすべてを排除してのける、彼のその重く仄暗い愛を、わたしは心のどこかで歓び、受け入れてしまっているのですから。
「もう、怖い話は忘れなさい。君の美しい頭の中を、あんな男のことで僅かでも占められるのは、僕が嫉妬してしまうからね」
レインハルト様は立ち上がり、わたしを椅子から抱き上げて、柔らかいベッドの上へと静かに横たえました。
彼が覆い被さってくると、わたしの視界は彼という存在だけで完全に塞がれてしまいます。
彼の顔が近づき、鼻先が触れ合うほどの距離で、熱い吐息が交じり合いました。
「君はもう、僕と、子どもたちのことだけ考えていればそれで充分なんだよ」
そう囁く声は、どこまでも優しかった。
わたしはその温度に目を閉じながら、この胸の奥の寒さごと、彼に預けてしまいたいと……そう、思ってしまったのです。
これにて、黄金の檻 第三部エピローグ終了となります。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
少しでも心に残っていただけましたら☆など入れていただけると嬉しいです。
また、ブクマで追っていただけますと第四部開始の活動報告などが届きます。
続く番外編は風邪を引いたレインハルトや、彼の帰宅を阻止しようと子どもたちが奮闘する話など、コメディ山盛りでお届けします。
どうぞお楽しみに。




