35_静かな微笑み
「王子を殺害した娼婦が、切り取った『それ』を持ったまま、半年間も逃亡を続けていたらしいのです。そして先日、ついにその娼婦が捕縛され、見せしめとして公開処刑されたことで、隠しきれなくなった黒い噂が一気に広まったとのことでした」
血の気が引いていくのが、自分でもわかりました。
切り取られた肉片を持ったまま、半年も逃げ続ける娼婦。
そして、その公開処刑。
想像するだけで吐き気がこみ上げてくるような、あまりにも凄惨で狂気に満ちた結末です。
「間者からの報告は以上でございます。すでに他国の社交界にも、瞬く間に噂が広がり始めているとのことでした」
「ご苦労だった。下がっていい」
レインハルト様の短く冷徹な命令に、侍女は一礼して足早に立ち去っていきました。
テラスには、再び元の静寂が戻ってきます。
しかし、わたしの心の中は、嵐が吹き荒れた後のように激しくかき乱されていました。
ジュリアン王子に対する同情はありません。
彼が過去にわたしたちにした非道な振る舞いを思えば、自業自得だと言えるのかもしれません。
しかし、あまりにも惨たらしいその死に様と、背後に潜む得体の知れない闇の存在を想像すると、背筋に冷たいものが走るのを止められませんでした。
「……ひどい顔色だ。気分が悪いのかい、シャルロット」
ふいに、低く甘い声が鼓膜を打ちました。
ハッとして顔を上げると、レインハルト様がいつもと変わらない、穏やかで優しい眼差しでわたしを見つめていました。
彼の瞳には、先ほどの凄惨な報告に対する驚きも、動揺も、欠片ほども浮かんでいません。
「レインハルト様……。今の報告、お聞きになりましたか? ジュリアン王子が、あのような……」
「ああ、聞いたよ」
彼は優雅な所作でティーカップを持ち上げ、ゆっくりと香りを楽しみながら口に含みました。
その動作はあまりにも自然で、まるで「今日は少し風が強いね」とでも言うかのような、完璧な平常心でした。
「恐ろしいこともあるものだ」
ぽつりと、レインハルト様は静かにそう呟きました。
その声には、形式的な哀悼の意さえ含まれていませんでした。
ただ事実として、どこか遠い国の戯言でも耳にしたかのような、淡々とした響きでした。
そして彼は、ティーカップを静かにテーブルに置くと、身を乗り出してわたしの震える両手をそっと包み込んでくれたのです。
「だが、君が怯える必要はどこにもない。他国の愚かな王子の末路など、僕たちの生活には何の影響も及ぼさないのだから」
「でも……」
「かわいそうに、恐ろしい話を聞かせてしまったね。大丈夫、僕が君を……そして君の周りのすべてを、どんな脅威からも守ってみせるよ。だから、そんなに震えないでおくれ」
レインハルト様の大きな手が、わたしの冷たくなった手を温めるように優しくさすってくれます。
彼の口元には、わたしを安心させるための、甘く、慈愛に満ちた静かな微笑みが浮かんでいました。
その優しさに触れ、わたしの張り詰めていた緊張は、ふっと解けていきました。
そうよ。
わたしには、この方がついている。
どんなに恐ろしいことが外の世界で起ころうとも、公爵邸というこの安全な城の中だけは、彼は絶対に守り抜いてくれるはずだから。
「……はい。ありがとうございます、レインハルト様」
わたしは彼の温もりにすがりつくように、ゆっくりと頷きました。
恐怖は薄れ、安堵の溜息が漏れます。
けれど。
彼の完璧すぎる微笑みと、微塵の動揺も見せなかったあの冷ややかな瞳の奥を思い出した時。
半年以上前。
それはちょうど、ノルディアから帰国し、ノルディア出身だという新入りのメイドがレインハルト様を誘惑し、そして彼女を解雇したあとの舞踏会でわたしたち夫婦がワイン濡れになるという、事件が立て続けに起こっていた時期でもあります。
もし、ジュリアン殿下の死が偶然ではなかったとしたら。
もし、娼婦が王子を惨殺し、切り取った肉片を持って逃げたという狂気に満ちた筋書きすらも、誰かの手によって巧妙に仕組まれたものだったとしたら。
『僕が君を……そして君の周りのすべてを、どんな脅威からも守ってみせるよ』
その言葉の意味が、ふと別の響きを持って脳裏をよぎりました。
いえ、まさか。
そんなはずはありません。
いくらレインハルト様が冷酷な一面を持っているとはいえ、他国の王子をあのような残虐な手段で暗殺し、誰とも分からぬ娼婦まで利用するだなんて……。
わたしは必死に頭を振って、浮かび上がりそうになった黒い疑念を心の奥底へと沈めました。
見上げてみる彼の顔は、やはりどこまでも優しく、わたしへの愛に満ち溢れています。
わたしは彼を愛している。
彼もわたしを愛してくれている。
それで十分なはずなのです。
わたしはレインハルト様の手に自分の手を重ね、彼の静かな微笑みに、強張りそうになる頬を必死に持ち上げて笑い返しました。
温かい日差しに包まれたテラス。
甘いお菓子の香り。
愛する夫の優しい手。
これ以上ないほど幸福なはずの午後のお茶会。
それなのに、わたしの胸の奥底には、まるで氷の欠片を飲み込んでしまったかのような、言い知れぬ寒さが、いつまでも、いつまでも残っていたのでした。
【第三部 完】
第三部、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
異国ノルディアへの旅から始まった第三部でしたが、外の世界の眩しさと危うさ、そしてシャルロットを守ろうとするレインハルトの愛が、さらに深く、さらに昏く沈んでいく章になったのではないかと思います。
守ることと閉じ込めること。
優しさと狂気。
その境界が曖昧になっていく中で、それでもシャルロットは彼の手を取り、彼もまた完璧な微笑みのまま彼女を包み込んでいく。
第三部は、そんな「黄金の檻」の輪郭が、これまで以上にはっきりと見えてくる幕でした。
そしてここで第三部本編は完結となります。
このあと エピローグ、さらに 番外編を4~5本ほど 続けて更新予定です。
もう少しだけ、ふたりとその周囲の物語にお付き合いいただけたら嬉しいです。




