8_葛藤の飛翔
校門へと向かう途中で、わたしはばったりと書庫から出てきたレインハルト様と出くわしました。
「あ……レインハルト、様」
「……シャルロットか」
彼は一瞬、逃げるように視線を逸らしましたが、わたしたちの帰る方向は同じです。
沈黙が痛いほど重い中、わたしたちは並んで歩き始めました。
さっきまで演武場で浴びせられていた、あの熱気と、魔法専科の生徒たちの歓声。
そして、回廊でクラリス様に囁かれた優しさの刃。
『もしあなたが苦しくなる日が来たら。……身を引く、という優しさも、あるのよ』
(あの言葉が、まだ胸に刺さったまま……)
街灯の魔石が淡く光り始め、夜の帳がゆっくりと降りてくるこの時間。
わたしの身体の奥からは、じわりと、あの「熱」が湧き上がってきていました。
(ああ、まただわ……。どうして最近、夜が近付くとこんなに胸の奥が落ち着かないのかしら……)
自分の肌から、花蜜を煮詰めたような甘い香りが気配として滲み出ていることに――わたしは気づけませんでした。
「…………」
レインハルト様は、一言も発しません。
ただ、いつも以上に足早で、わたしからわずかに距離を置いて歩いています。
その横顔は、美術品のように美しく、そして冷徹でした。
一度もわたしを見ようとせず、指先さえ触れようとしない。
婚約者として、隣を歩いているはずなのに、心は果てしなく遠い場所にあります。
(やっぱり、嫌われているのかしら。わたしのことなんて、もう、視界に入れたくもないほどに……)
悲しみと、身体の奥から突き上げてくる得体の知れない疼きに、わたしの理性は限界でした。
今、ここで繋ぎ止めなければ、彼は二度とわたしの元へは戻ってこないのではないか。
そんな恐怖に突き動かされ、わたしは彼の制服の袖を震える指で掴みました。
「……レインハルト様……」
「……何だ。急いでいるのだが」
立ち止まった彼は、やはりこちらを見ようとしません。
わたしは俯いたまま、消え入りそうな声で、けれど必死に想いを絞り出しました。
「……抱きしめて、ほしいの……」
「………っ!」
「お願いです、レインハルト様…。一度でいいから、わたしを、ちゃんと抱きしめて……」
その瞬間。
周囲の空気が破裂したように揺らぎ、木々が凪ぎました。
わたしの中で押し込めていた「熱」が、言葉と一緒に溢れ出し――甘い香りの気配が、ふわりと濃くなる。
「……何だ、この匂い」
「急に……頭がぼうっとする……」
通りを歩いていた人々が、一斉に足を止めました。
振り返る視線が集まり、まるで舞台の上に引きずり出されたみたいで、わたしは身を竦めました。
怖い……どうして、……理由が分からない。
けれど――もっと怖かったのは、目の前のレインハルト様の反応でした。
「……くそ……っ」
彼は歯を食いしばり、喉の奥で苦しげに息を吐きました。
まるで、今ここで何かが決壊するのを必死に押し留めているみたいに。
彼の周囲の空気だけが張り詰め、魔力がきしむ音さえ聞こえそうでした。
「シャルロット、君は……っ!」
怒りに似た声と同時に、彼の手がわたしの手首を掴みました。
――痛い。
そう声に出そうとした瞬間、周囲のざわめきがふっと遠のきました。
耳鳴りのような異様な静寂の中、手首を掴んだままのレインハルト様が、数秒間、石像のようにピタリと動かなくなったのです。
荒い呼吸だけが聞こえます。
彼の指先が小刻みに震え、まるで自分の中の『何か』を必死に、必死に奥底へ押し込めているような……ギリギリの限界を感じさせる恐ろしい沈黙でした。
そして次の瞬間。
驚く間もありませんでした。
彼はわたしを乱暴なほど強く抱き上げ、そのまま地面を蹴って宙へと舞い上がったのです。
「きゃああああああっ!!」
急激な浮遊感に、わたしは反射的に彼の胸元に縋りつきました。
黄昏時の冷たい風が頬を叩きます。
けれど、彼の腕の中だけは熱を帯びていて、離れればたちまち凍えてしまいそうでした。
王国で唯一、彼だけが操れると言われる高度な飛行魔法。
レインハルト様は忌々しそうに顔を背けたまま、猛スピードでエリュシオン侯爵邸へと空を翔けていきます。
「夕暮れ以降に、外を歩くなと……言ったはずだ」
耳元で、彼の低く震える声が響きました。
それは甘い囁きではなく、必死に自分を律する者の声でした。
「ごめんなさい……でも」
「君は、自分がどれほど……っ、いや……くそっ」
言いかけた言葉をひどく乱暴に飲み込み、彼は苦悶に満ちた顔を歪めました。
「……とにかく。今は、僕に……近付かないでくれ」
その言葉に、わたしは弾かれたように唇を噛みました。
説教されている。
咎められている。
そう受け取ることしかできませんでした。
(近付かないでくれ……?)
胸が張り裂けそうになります。
(嫌われている……? でも、わたしを抱え込むこの腕は、こんなにも熱くて震えている。さっきの、何かを必死に耐えるような様子は――)
そこまで思考が向かった時、クラリス様の声が、また胸の中で冷たく鳴りました。
『――あなたが望む望まないに関わらず、その現実は、あなたの心を削るでしょう』
(……そうね。わたしが、彼の負担になっているのよ)
彼の腕は折れそうなほど強くわたしを抱え、離そうとしません。
けれど、目は合わせないし優しく撫でることもありません。
ただ、怒りにも似た切迫と、制御しきれない魔力のうねりだけが、彼の本音を告げているようでした。
この時のわたしには、それが理解できませんでした。
わたしが勇気を振り絞って差し出した言葉は、彼にとっては「正されるべきもの」でしかないのだと。
彼は、わたしのことを疎ましく思っているのだと――そう思い込んでしまったのです。
(……あぁ、やっぱりダメなのね)
やがて見慣れた屋敷の輪郭が近づき、バルコニーが視界に入ります。
彼はまるで仕事のように正確な動きで、わたしをそっと床へ下ろすと、すぐさま距離を取りました。
そして一度も振り返ることなく、再び夜の闇へと飛び去っていきました。
最後に残されたのは、胸に押しつけられた外套の温度と、「自分は間違っている」と烙印を押されたような、惨めな気持ちだけでした。
(こんなんじゃ、たとえ結婚したとしても……わたしは、彼の隣に立てないわ……)
バルコニーにへたり込み、わたしは声を殺して泣きました。
彼が書庫で調べていたのはなんだったのか。
空を飛んでいる間、彼がどれほどの緊張で何かと戦い、必死に自分を抑えていたのかも。
わたしは、まだ何も知らなかったのです。




