9_さようなら
数日間、自室に引き籠もり泣き明かしました。
厚いカーテンを閉め切り太陽の光さえ拒絶した薄暗い部屋の机で、わたしはペンを握りしめたまま動けずにいました。
震える指先で、何度も書き直した婚約破棄の書状。
そこにインクの雫が落ちて、羊皮紙が黒く滲んでいきます。
(それでも、もし彼が――)
ふと、あの時わたしを抱きしめた彼の震える腕の熱を思い出し、ペンを置こうとしてしまいました。
何か、わたしの知らない事情があるのではないか。
そう縋りつきたくなるのです。
けれど、空の上で浴びせられた冷たい声が、すぐにその甘い迷いを打ち砕きます。
『必要以上に僕に近寄らないでほしい』
クラリス様の「身を引くという優しさもある」という言葉が、とどめのように胸に響きました。
わたしの身体から溢れる正体不明の「甘い気配」が、高潔な彼を不快にさせ、理性を苛立たせているのなら。
わたしの存在そのものが彼にとっての害悪であり、重荷でしかないのなら。
永遠に消えてあげるのが、わたしにできる最後で最大の愛なのだと思いました。
(彼の心はわたしには無いのだわ。そのうえ、触れることさえ拒まれてしまっては……もう)
涙で滲んだその羊皮紙を、信頼できる使いの者に託したとき。
わたしの心は完全に死んでしまいました。
それは単なる契約の解消ではなく、わたしの人生そのものを放棄するような、そんな絶望を伴う痛みでした。
***
翌日、重い足取りで学園へ向かうと、校門の近くでレインハルト様に呼び止められました。
「シャルロット! 待ってくれ、あの書状はどういう……っ」
息を切らしたような彼の声。
聞き慣れた、けれど今は聞きたくない低く甘い声です。
彼はわたしの肩を掴もうと、大きな手を伸ばしてきます。
いつもならその節ばった指先に触れられるだけで、心臓が跳ね上がるほど舞い上がっていたはずなのに。
今のわたしにはその手が、自分を遠ざけ、突き放すためのものにしか見えませんでした。
わたしは思わず、その手から逃れるように身を引いてしまいます。
「……書状に書いた通りですわ、レインハルト様」
わたしは一度も彼の目を見ず、冷たく、けれど震える声でそう告げました。
「違う、君は誤解している。僕はただ――」
「誤解などではありません!」
言いかける彼の言葉を、わたしは悲鳴のような声で遮りました。
これ以上、あの冷ややかな拒絶の理由を直接聞かされたら、わたしは本当に壊れてしまいます。
「今まで、ご無理をさせて申し訳ありませんでした。貴方を不快にさせるような真似は、もう二度といたしません。……さようなら」
深く会釈をして、わたしは逃げるようにその場を去りました。
背後で彼がわたしの名前を叫んでいたような気がしましたが、耳を塞いで走り続けました。
教室の扉を開けると、一週間ぶりに登校したわたしに視線が集まります。
いつもなら耳に心地よいはずのざわめきが、今日は針みたいに刺さりました。
机に鞄を置いても、椅子に座っても、胸の奥の痛みがほどけません。
校門で振り払ったはずの低い声が、まだ鼓膜の裏に残っています。
『――違う、君は誤解している』
その続きを聞けば、何か変わったのでしょうか。
でも聞いたら最後、わたしはまた期待して、また深く傷つくのでしょう。
(…わたしは、もう、あの人の目を見られない)
視線を落としたまま、教科書の文字を追うふりをします。
けれど、文字は墨の染みみたいに滲んで、ひとつも頭に入ってきませんでした。
「シャルロット」
机の隣の影が揺れ、次いで、椅子がきい、と鳴りました。
顔を上げる前に分かります。
赤い髪に青い瞳、――リオネルです。
「ひさしぶりじゃん。……大丈夫なのか? さっきさ、正門のとこ。見えた」
小声でした。
周りに悟られないように、でも、わたしの心臓だけは確実に揺さぶる声。
わたしは返事の代わりに、唇をぎゅっと結びました。
「姉貴の言葉……真に受けるなよ」
その一言に、胸の奥がひくりと痛みました。
クラリス様の『優しさの刃』が、まだ心に深く刺さったままなのだと気づかされます。
「……でも、レインハルト様が……」
声に出した瞬間、自分の声が情けなく震えて、恥ずかしくなりました。
リオネルは苛立ったように頭を掻いて、でも、乱暴に優しく言います。
「レインハルト様はさ、たぶんすげえ不器用なんだよ。普段あんなに理知的で優しい人が、理由もなく冷たくするわけないだろ」
「……」
それはわたしの、わたしには感じることのできない「甘い匂い」のせい……と、喉元まで出かけて、引っ込めました。
「オレはあの人の頭の中まで覗けねえ。……でもさ、シャルロットが悪いわけじゃねえ。泣きそうな顔すんな。……姉貴のことも、レインハルト様の態度も、全部お前が足りないって話にすり替えんなよ。あの人らそれぞれの問題なんだから」
――すり替えるな。
その言葉だけが、胸の奥で微かに温度を持ちました。
けれど、痛みは消えません。
レインハルト様はわたしの「なにか」が気に入らなくて避けているのは確実なのです。
「……ありがとう、リオネル」
笑おうとしたのに、頬がうまく動かなくて、わたしは目を伏せたまま小さく呟きました。
リオネルはそれ以上、無理に何も言わず、椅子を引いて立ち上がりました。
「放課後、送ろうか?」
「……大丈夫。今日は、ひとりで……考えたいの」
そう言った瞬間、胸の痛みの奥で、別の熱が小さく灯った気がして――わたしはまた、怖くなったのです。




