10_月下の魔導師
放課後、いつも正門前でわたしを待っているはずのエリュシオン侯爵家の豪華な馬車。
御者に「今日は所用のため、後ほど別の馬車で帰りますので」と伝え、わたしは夕闇が差し迫る街へ続く道に踏み出しました。
西の空は熟しすぎた果実が潰れたような、毒々しいまでの朱色に染まっています。
その光は石畳に落ちるわたしの影を長く、細く引き伸ばし、まるで見知らぬ怪物のように足元を這い回っていました。
賑やかな市街地を抜け、さらに奥まった場所へ。
建物の隙間から漏れる湿った風が制服のスカートを冷たく揺らします。
そこは下町の薄暗い路地。
表通りのそれとは違い、石畳の隙間からはどぶ川の臭いと、すえたゴミの匂いが立ち昇っていました。
(……もう、どうなってもいいわ)
どうせ、彼の視界から永遠に消えようと決めた身です。
自分という存在がひどく無価値に思えて、わたしは自暴自棄のまま、鉄錆と安煙草の匂いが漂う酒場の軋む扉を押し開けました。
そこは侯爵令嬢が足を踏み入れるべきではない、澱んだ空気が満ちる場所でした。
カウンターの木材は油で黒ずみ、触れると指先にねっとりとした不快感が残ります。
わたしは場違いな清潔さを振り払うように座り、壁に貼り付けられた手書きの汚い酒の銘柄を適当に指さしました。
「おじさま……あれ、くださいな」
「おいおい、お嬢ちゃん、こんな強い酒を……。ここは学校帰りのお嬢様が遊びに来るような場所じゃねえよ」
「大丈夫です! ……早く、出してくださいまし」
店主はやれやれと汚れの目立つ布で手を拭い、困ったような手つきで傷だらけのグラスに酒を注ぎました。
目の前に置かれたのは、安価な毒のようにぎらつく琥珀色の液体。
わたしはためらいながらも、それを一気に喉へと流し込みました。
ゴクリ、と喉が鳴ります。
一口目は、喉を焼くような暴力的なまでの熱。
食道を通って胃に落ちるまでの感覚が、鮮明な「痛み」として脳に刻まれます。
けれど、二口、三口と重ねるうちにその鋭い痛みが嘘のように鈍り、今度は手足の先から重力から解き放たれていくような浮遊感が生まれました。
埃っぽい店内の天井がゆっくりと旋回し始め、視界の輪郭が溶けていきます。
お酒の力によって、積み上げられた理性と行き場のない不安、そして胸を抉るような悲しみが、音を立てて崩壊していくのが分かりました。
「ねえ、おじさま……。一人の男の人を想い続けるって、どうしてこんなに喉が渇くのかしら……」
無意識のうちに漏れた独り言。
アルコールの毒気に当てられ、普段は固く閉じ込めていた何かが、甘い、あまりにも甘い香りとなって、薄暗い酒場の隅々へと静かに染み出していきます。
それが、誰かの意識を引き寄せる危険な気配だとは、わたしには感じる術もありませんでした。
ふと、背中にねっとりとした視線を感じました。
一人、二人。振り返らなくても、わたしに向けられる熱を帯びた眼差しが増えていくのが分かります。
理由の分からない居心地の悪さが急に背筋に貼りつき、わたしは逃げるように硬貨を置いて店を飛び出しました。
夜の冷たい空気を吸い込み、千鳥足で路地を歩き始めます。
けれど、背後の暗がりから、ひた、ひた、と複数の足音がついてくるのです。
わたしが立ち止まると、足音も止まる。
急ぎ足になると、背後も距離を詰めてくる。
――怖い。
夜の静寂、満ちていく月の魔力、そしてアルコールによる理性の喪失。
それらすべてが最悪の形で混ざり合い、わたしの肌から噎せ返るほど甘い芳香が霧のように立ち込めていることにすら、気づけませんでした。
角を曲がって大通りに出ようとした瞬間、前方に二つの人影が立ち塞がりました。
振り返ると、背後からついてきていた男たちも退路を塞いでいます。
気づいた時には、完全に囲まれていました。
「お、おい……なんだ、この匂い……」
「たまらねえ……」
暗がりから、ずるりと影が這い出してきた。
三、四人の薄汚れた男たち。
普段のわたしなら恐怖で叫んでいたでしょう。
けれど、酩酊し、足元が定まらない今のわたしは、逃げる方向さえ見失い、ただ――誰かに縋りたい衝動だけが先走っていました。
「……お願い。わたし……帰り道が、分からなくて……」
伸ばした手は助けを求めたはずなのに。
男たちの笑い声が近づき距離が詰まる。
肩に乱暴な手がかかり、わたしは息を呑みました。
(嫌……っ)
ようやく恐怖が追いついた、その瞬間――。
「――汚らわしい手を、どけろ」
冷や水を浴びせるような、鋭く低い声。
その場にいた全員の身体が、氷を突きつけられたように強張りました。
路地の入り口に立っていたのは、月光を背負い、夜の闇よりも深い絶望を纏ったレインハルト様でした。
肩がわずかに上下し、荒い息が喉を擦る音が聞こえる。
高潔な小公爵――その仮面の奥から、獣のような警戒と、抑え切れない焦燥が覗いていました。
「レ、レインハルト……さま……?」




