7_優しさという刃
見学が終わり、普通科の校舎へ戻る回廊は日差しが斜めに差し込んでいました。
石畳の冷たさ、夕方の風、遠くで鳴る鐘の音。
――それらが、さっきまでの非現実を「学園の日常」へ押し戻していく。
けれど、わたしの胸のざわめきだけが、取り残されたままでした。
(クラリス様が、レインハルト様に話しかけていた)
ただそれだけのこと。
ただ、師事の相談をしていただけ。
それなのに、あの場に満ちていた「お似合い」という囁きが、指先にまとわりついて離れない。
わたしの婚約者が、わたしの知らない場所で、わたしの知らない言葉で、誰かと「同じ世界」に立っているように見えてしまったのです。
「シャルロット、歩くの遅い」
前を行きかけたリオネルが振り返って、少しだけ不機嫌そうに眉を寄せました。
でも、その目は心配そうで。
「……ごめんなさい。ちょっと、考え事」
「考え事は後。――ほら」
彼はわたしが置いていかれないように歩幅を合わせてくれます。
そのことが、ありがたくて、情けなくて、胸がきゅっとなる。
コツ、コツ。
背後から、靴音が一つ、二つ。
音が整いすぎていて、思わず振り返ってしまいました。
そこにいたのはクラリス・ヴァレンティーヌ様でした。
演武場で見た時と同じ――背筋が伸び、髪の一本すら乱れていません。
夕陽の中でその輪郭だけが少し柔らかく見えるのに、近づくほど冷えた香りがするような気がしました。
「…シャルロット・エリュシオン様」
名前を呼ばれた瞬間、喉がきゅっと縮まりました。
わたしが誰か、知っている。
さっき演舞場で目が合ったのは気のせいではなかったのです。
「はい……」
わたしが小さく会釈すると、クラリス様は穏やかに微笑みました。
その笑顔は優しい。
優しいけれど、距離があります。
「本日お見かけして……少し、お話してもよろしいかしら」
「姉さん、なに」
「あら、リオネル。邪魔をするつもりはないのよ」
クラリス様はわたしへ視線を戻し、声を少しだけ柔らかくしました。
「シャルロット様。あなたは、学園でも有名ですもの。レインハルト様のご婚約者……でいらっしゃるから」
有名。
その言葉の意味が、わたしにはよく分かっていました。
――魔力もないのに、最強の魔導士の婚約者。
――最近、避けられているよう。
――釣り合わない。
演武場で聞こえていた囁きが、今度は回廊の壁から滲み出してくるみたいで、胸がきしむ。
「……はい」
返事は、情けないほど小さくなってしまいました。
クラリス様は、まるで心配しているかのように首を傾げます。
「差し出がましいことを申しますわ。けれど……レインハルト様は、あまりにも特別なお方です。そして、あなたは――とてもお優しい方に見える。魔力を持たないことは、罪ではありませんわ。むしろ、この国では大半の方がそう」
クラリス様はそこで言葉を区切り、静かにわたしの瞳を覗き込みました。
「けれど……レインハルト様の隣に立つことは、時に、優しい方ほど苦しくなる」
「姉貴、やめろよ」
リオネルがわたしとクラリス様の間に割り込みます。
「やめないわ。リオネル。――これは、忠告よ」
クラリス様は、視線を逸らさないまま言いました。
わたしではなく、わたしの立場を見て話しているような冷ややかな目で。
「魔導の力は血統優位性。この世界の常識よ」
わたしは息を呑みました。
「国の安全保障であり、王家の系譜であり、貴族社会そのものの骨格。……最強の血は『相応しい器』に注がれるべきだわ」
反論など、できるはずもありませんでした。
それが真実だからです。
「学園には彼を慕う方がたくさんいらっしゃる。魔法専科には、彼と同じ言語で話せる方がいる」
一歩、彼女が距離を詰めてきました。
甘く冷えた香りが、ひやりと肌を撫でます。
「あなたが望む望まないに関わらず、その現実は、あなたの心を削るでしょう」
削る、その言葉が胸の内側を正確に抉りました。
だって――もう、削れているのです。
もう、毎晩、削れている。
レインハルト様が、わたしを避けている。
書庫の明かりが遠い。
彼は「真理」に手を伸ばしているのに、わたしは、ただ恋をしているだけ。
(格差なんて言葉、口にしたくないのに)
それでも、現実は目の前に立っている。
クラリス様は、微笑みを崩さずに続けました。
「もしあなたが苦しくなる日が来たら。……身を引く、という優しさも、あるのよ」
回廊が、静まり返りました。
遠くの笑い声も、足音も、風の音も。全部が消えて――耳の奥で、心臓の音だけがうるさく響きます。
先日、わたしが自ら唇を重ねて、凄絶に突き放された時の絶望が蘇ります。
身を引く。
それが彼のため――?
この恋を捨てて……?
「……それでも」
震える唇から、かすかな声が漏れました。
「え?」
クラリス様が小首を傾げます。
それでも、わたしは彼の側にいたい。
彼が好きなのです。
けれど、必死に紡ごうとしたその言葉は喉の奥でつかえて、音にはなりませんでした。
頭の中は真っ白で、ただ、視界だけがじわっと滲みます。
リオネルが、わたしの前に立つようにして言いました。
「姉貴、なんてこと言うんだよ。シャルロットは…」
「大丈夫よ、リオネル。――彼女は賢いわ。だから、きっと分かる」
分かる………、分かりたくなんてない。
分かってしまったら、終わってしまう。
わたしは、ぎゅっと拳を握りしめ、ぺこりと会釈しました。
「……ご忠告、ありがとうございます」
声が震えないようにするので精一杯でした。
顔を上げると、クラリス様の静かな微笑みがそこにあります。
リオネルが何かを言おうと、わたしの方へ手を伸ばしかけていました。
これ以上ここにいたら、せき止めていた涙が溢れて、完全に惨めな敗北を晒してしまう。
(もう、限界――)
次の瞬間、わたしは弾かれたように踵を返し、駆け出していました。
リオネルを置き去りにして。
背中に誰かが呼ぶ声が飛んできた気がしました。
でも、振り返れません。
ただ、走って。
回廊の角を曲がって、息が切れるまで。
胸が痛くて、苦しい。
それなのに、その痛みの奥に、別の熱が小さく灯るのを感じてしまって――わたしは、さらに怖くなりました。
(……わたし、どうして)
心が壊れそうなのに。
それでも、胸がざわつきます。
そこに「彼」がいるから。
そして、そのざわめきは――まるで、眠っていた何かが目を覚ます合図みたいに、じわじわと強くなっていくのでした。




