8_月下の魔導士
放課後、いつも正門前でわたしを待っているはずの、エリュシオン侯爵家の豪華な馬車。
御者に「今日は所用のため、後ほど別の馬車で帰りますので」と伝え、夕闇が差し迫る街へ続く道に踏み出した。
西の空は、熟しすぎた果実が潰れたような、毒々しいまでの朱色に染まっている。
その光は、石畳に落ちるわたしの影を長く、細く引き伸ばし、まるで見知らぬ怪物のように足元を這い回っていました。
賑やかな市街地を抜け、さらに奥まった場所へ。
建物の隙間から漏れる湿った風が、制服のスカートを冷たく揺らします。
そこは、下町の薄暗い路地。
貴族街のそれとは違い、石畳の隙間からはどぶ川の臭いと、すえたゴミの匂いが立ち昇っていました。
侯爵令嬢が足を踏み入れるべきではない、鉄錆と安煙草の匂いが漂う酒場。
軋む扉を開けると、そこには淀んだ時間が堆積していました。
窓のない室内は、煤けたランプの光が弱々しく揺れ、床には誰かが零した安酒の跡が染み付いています。
しかし、こんなところでなければ……明らかに名門校の制服を着た学生に、まともな酒など出してくれはしないでしょう。
カウンターの木材は油で黒ずみ、触れると指先にねっとりとした不快感が残ります。
わたしは場違いな清潔さを振り払うように座り、壁に貼り付けられた、手書きの汚い酒の銘柄を適当に指さしました。
「おじさま……あれ、くださいな」
「おいおい、お嬢ちゃん、こんな強い酒を……。ここは学校帰りのお嬢様が遊びに来るような場所じゃねえよ」
「大丈夫です! ……早く、出してくださいまし」
店主はやれやれと、汚れの目立つ布で手を拭い、困ったような手つきで傷だらけのグラスに酒を注ぎました。
目の前に置かれたのは、安価な毒のようにぎらつく琥珀色の液体。
わたしはためらいながらも、その火を呑むような熱さを喉へと流し込んでいく。
ゴクリ、と喉が鳴る。
喉を焼くような、暴力的なまでの熱。
食道を通って胃に落ちるまでの感覚が、鮮明な「痛み」として脳に刻まれる。
けれど、その鋭い痛みがもたらす、理性を麻痺させてくれる毒は、今のわたしには何よりも救いでした。
(……何も考えたくないわ)
ひとくち、また一口と重ねるごとに、重力から解き放たれていくような浮遊感が生まれていきました。
埃っぽい店内の天井が、ゆっくりと右へ左へと旋回し始め、視界の端から輪郭が溶けていく。
お酒の力によって、積み上げられた理性と、行き場のない不安、そして胸を抉るような悲しみが、音を立てて崩壊していくのが分かりました。
「ねえ、おじさま……。一人の男の人を想い続けるって、どうしてこんなに喉が渇くのかしら……」
無意識のうちに漏れた独り言。
アルコールの毒気に当てられ、普段は固く閉じ込めていた何かが、甘い、あまりにも甘い香りとなって、薄暗い酒場の隅々へと静かに染み出していく。
けれどそれが、誰かの意識を引き寄せる危険な気配だとは、わたしには感じる術もなかった。
店の中の数人が、ちらりとこちらを見る。
視線が増える。
理由の分からない居心地の悪さが背筋に貼りつくのに、わたしはグラスを置けませんでした。
店を出て、千鳥足で夜の路地を歩き始めると、身体の奥底から何かが堰を切ったように溢れ出した。
夜の静寂、満ちていく月の魔力、そしてアルコールによる理性の喪失。
それらすべてが最悪の形で混ざり合い、わたしの肌から、噎せ返るほど甘い芳香が霧のように立ち込めていく。
「お、おい……なんだ、この匂い……」
「たまらねえ……」
暗がりから、ずるりと影が這い出してきた。
三、四人の薄汚れた男たち。
普段のわたしなら恐怖で叫んでいたでしょう。
けれど、酩酊し、足元が定まらない今のわたしは、逃げる方向さえ見失い、ただ――誰かに縋りたい衝動だけが先走っていました。
「……お願い。わたし……帰り道が、分からなくて……」
伸ばした手は、助けを求めたはずなのに。
男たちの笑い声が近づき、距離が詰まる。
肩に乱暴な手がかかり、わたしは息を呑みました。
(嫌……っ)
ようやく恐怖が追いついた、その瞬間――。
「————汚らわしい手を、どけろ」
冷や水を浴びせるような、鋭く低い声。
その場にいた全員の身体が、氷を突きつけられたように強張りました。
路地の入り口に立っていたのは、月光を背負い、夜の闇よりも深い絶望を纏ったレインハルト様でした。
肩がわずかに上下し、荒い息が喉を擦る音が聞こえる。
高潔な小公爵――その仮面の奥から、獣のような警戒と、抑え切れない焦燥が覗いていました。
「レ、レインハルト……さま……?」




