5_一番近くて遠い人
学園の演武場は、いつ来ても空気が違う。
石畳に刻まれた無数の魔法陣――踏み入れた瞬間、肌の表面が微かに震えるような、見えない力の気配がしました。
今日は見学だけ。
そう分かっているのに胸の奥がそわそわと落ち着かない。
普通科のわたしたちは演武場の端に設けられた見学席へ案内され、魔法専科の実習を遠巻きに見る立場でした。
――普通の人のほうが、圧倒的に多い。
学園だって、魔法専科は毎年ようやく二十人の枠が埋まる程度で、普通科は二十人が三クラス。
王立という性質上、入学できるのは貴族と、それに準ずる魔導士の家系だけなのに、それでも「魔法を使える者」は少数派でした。
わたしは膝の上で手を重ね、なるべく目立たないように観覧席の端へ腰掛けました。
隣に座ったのはリオネル・ヴァレンティーヌ。
わたしと同じ普通科で、最近なにかと気にかけてくれる人だ。
「うわ、やっぱ人多いな……」
「魔法専科って、一学年二十人しかいないんでしょう? それでも、今日は見学も混ざるから……」
「まあそうだろ。あっちは『選ばれた側』だし。……って、そろそろか」
演武場の中央では年配の教授が杖で地面を軽く叩き、乾いた音を響かせました。
「諸君、静粛に。これより魔法専科三年生の実習、ペア戦を行う。見学の者は規律を守り、実技に干渉しないこと」
良く通る声を響かせた教授のその横、少し離れた位置に、ひときわ目を引く人物がいます。
黒髪に端正な横顔。
見え隠れする黄金の瞳。
椅子に優雅に腰掛け、腕を組み、ただそこに居るだけで場の空気が締まります。
レインハルト様。
公爵家嫡男にして王国最強の魔導師。
――そして、わたしの婚約者。
レインハルト様の周囲だけ、まるで別世界みたいに澄んでいて。
そしてその澄んだ場所へ、女生徒たちの視線が洪水のように流れ込んでいく。
「ねえ、見た? レインハルト様よ」
「お顔が反則……」
扇子で半分隠した口元から、黄色い声が漏れていきます。
胸の奥が、じわりと痛みました。
「今回の課題はレインハルト・イル・ヴァルテンベルク研究士官生が錬成した巨大ゴーレムの破壊。二人一組で挑め。評価は技術精度とタイム、そして連携だ」
教授の一言でざわめきが大きくなった。
「棄権は認める。怪我をしてまで続ける必要はない。――いいな。ここは演武場であって、戦場ではない」
その言葉に、何人かが硬い笑いを浮かべました。
けれど、わたしは知っています。
魔法専科の実習が、時に戦場みたいになることを。
「さて、目標となるゴーレムは――」
そこで一瞬、教授の言葉が途切れました。
演武場の中央――本来なら巨大な標的が置かれているはずの場所に、何もない。
ざわ、と場が揺れる。
「……あれ? ゴーレムいないじゃん」
リオネルが小声で言いました。
わたしも思わず頷きかけた、その瞬間。
教授が咳払いをして、レインハルト様の方へ軽く視線を向けました。
「ヴァルテンベルク研究生。今日の目標――頼めるかね」
「承知しました」
レインハルト様は立ち上がり、ゆっくりと演武場の中心へ歩み出ます。
その足取りは淡々としていて、緊張とは無縁に見えました。
彼は地面の土を掌で撫でるように静かに押すと、葉脈のように魔法陣が浮かび上がる。
次の瞬間。
ぱき、ぱき、ぱきっ!
空気を劈くような恐ろしい音が響き、足元の石畳が微かに、けれどはっきりと震え始めました。
土がうねり、巨大な岩が凄まじい速度で膨れ上がっていきます。
息が詰まるほどの圧倒的な「魔力の圧」が、突風のように観覧席のわたしたちの肌を打ち据えました。
気づけば、見上げるほどの巨体がそこに立っていたのです。
赤い光を宿した目、大きく裂けた口。
無言のまま獲物を探す獣のような圧が、演武場の中心を支配しました。
「なん……っ」
リオネルが言葉を失う。
腰が抜けそう、という顔をして、わたしの袖を掴みました。
「え、え……今のなんだよ、無詠唱で!?」
わたしは声が出ませんでした。
(……これが、最強)
教授でさえ、一瞬だけ驚いた顔をして――それから、普段の厳格さを取り繕うように姿勢を正します。
けれど、指先が小さく震えているのが見えました。
「――では、第一ペア。前へ」
名前が呼ばれ、生徒二人が中央へ進みます。
ゴーレムは動きません。
けれどそれが逆に恐ろしく、まるで動く許可だけを待っているようでした。
レインハルト様が指先をほんの少し持ち上げます。
それだけで、巨人が動きました。
ドズンッ! と重い足音が地面を叩き、ゴーレムの巨大な腕が振り上げられます。
――その時でした。
前に出ていた生徒の一人が、巨体の圧力に耐えかねたのか足をもつれさせ、無防備に転倒してしまったのです。
「ひっ……!」
見学席から悲鳴が上がりました。
岩の拳が、容赦なく生徒の頭上へと振り下ろされ――。
潰される――。
誰もがそう思って目を閉じた瞬間。
ごうっ、という凄まじい風圧だけが演武場を吹き抜け、わたしたちの髪を乱しました。
恐る恐る目を開けると、巨大な拳は転倒した生徒の顔のわずか数センチ手前で、完全に停止していました。
レインハルト様が、指先をふっと下ろしていたのです。
ミリ単位の制御。
暴走など微塵も許さない、完璧すぎる支配でした。
「棄権するか?」
静まり返った演武場に、教授の声だけが響きます。
へたり込んだ二人は、青ざめた顔で何度も頷きました。
棄権が出たペアが退くと、別のペアが前へ進みます。
レインハルト様は相変わらず淡々と、同じように指先だけで巨人を動かし、襲いかかる動作を見せます。
破壊されれば、彼が土くれを指先で弾く。
すると崩れたゴーレムの残骸が逆再生みたいに集まり直し、寸分違わぬ精緻さで再び巨人の形を取るのです。
魔法専科の生徒が放つ火球や氷槍が空気を切り裂くたび、観客席がざわめきます。
でも、目が奪われるのはいつも最後に残る――ゴーレムを操るレインハルト様の静けさでした。
「……次、クラリス・ヴァレンティーヌ、イザベラ・ランドウィン。前へ」
その名前が呼ばれた瞬間、魔法専科の生徒たちが息を飲みました。
クラリス・ヴァレンティーヌ様。
伯爵家の令嬢で、魔法専科の中でも頭ひとつ抜けていると噂される人です。
整った顔立ち、迷いのない歩幅。
立ち姿だけで格が見えます。
イザベラ様は影の気配を纏うように静かな少女でした。二人が並ぶと、まるで完成された一枚絵のようです。
「始め」




