4_扉の向こうのあなた
青年はメガネの奥の瞳を伏せ、慎重な口調で言いました。
「一つ。『日没後は、絶対に一人で歩かないように』。
二つ。『身体に少しでも異変を感じたら、授業を切り上げてすぐに帰宅するように』。……以上だ」
「……え?」
耳を疑いました。
「もう会いたくない」とか、「婚約を解消したい」とか、そんな冷たい宣告を覚悟していたわたしの拍子は、完全に狂わされました。
日没後は歩くな。
異変を感じたら帰れ。
それは拒絶というより、まるで加護のような言葉で。
「それだけ……なのですか? ほかに、わたしへの言葉は……」
「ああ、それだけだ。じゃあ、私は研究棟に戻るよ。彼も……今は一分一秒を惜しんで書庫にこもっているからね」
金髪の青年は、嵐のように去っていきました。
あとに残されたのは、教室に漂う困惑の空気と、「解けない謎」だけでした。
「……なんだよ、それ。めちゃくちゃ具体的じゃねぇか」
呆然とするわたしの隣で、リオネルが顎をさすりながらぽつりと呟きました。
あんなに冷たい瞳でわたしを突き放し、触れることさえ忌避した彼が。
その伝言に、わたしの心は大きく揺れました。
もしあの拒絶が、嫌悪から来るものではなく、もっと別の……わたしの知らない理由によるものなのだとしたら。
(……確かめなければ。このまま逃げているだけでは、わたしは本当に彼を失ってしまう)
放課後、夕日が学園を飲み込み始める頃。
わたしはしばらく迷った末に、学園の厨房で温かいハーブティーと、軽い焼き菓子を分けていただきました。
――日没後は一人で歩くな。
彼のその厳しい警告が、頭の中で何度も警鐘を鳴らしていました。
本当は、日が落ちる前に真っ直ぐ帰るべきだと分かっています。
このまま書庫へ向かえば、彼を怒らせてしまうかもしれないということも。
差し入れなんて迷惑かもしれない。
余計なお世話だと思われるかもしれない。
それでも、何もせずにはいられなかったのです。
魔法専科の学生や教師しか立ち入りを許されない、巨大な石造りの魔導書庫。
その重厚な扉の前で、わたしは立ち止まりました。
冷たい静寂が支配する空間。
そこからは、微かに古い紙の匂いと、ピリピリとした魔力の残滓が漂ってきます。
「……あ、あの。失礼いたします」
受付窓口にいた事務官は、普通科の制服を着たわたしを見て、怪訝そうに眉をひそめます。
「ここは普通科の生徒が来るところではないぞ。何の用かね」
「申し訳ございません。……こちらにいらっしゃる、レインハルト・イル・ヴァルテンベルク様への差し入れを預かっていただけないでしょうか」
わたしがバスケットを差し出すと、事務官は「ああ、あの天才殿か」と納得したように頷きました。
「彼は特別書庫に閉じこもっていてね。君は……婚約者殿だね?承ろう」
「ありがとうございます。……それと、伝言を」
わたしは震える指先をぎゅっと握りしめ、事務官の瞳を真っ直ぐに見つめました。
「『レインハルト様も、どうかご無理なさいませんように。わたし、とても心配しております』……と。そう、お伝えください」
「承知した。伝えておこう」
事務官がバスケットを受け取り、窓口の奥へと消えていきました。
重厚な扉が閉ざされたままの書庫。
けれど、立ち去ろうとしたその時でした。
静まり返った書庫の奥、そのさらに先から、微かな音が聞こえてきた気がしたのです。
――パラリ。
規則正しく響いていたはずのページをめくる音が、わたしの言葉が事務官に届けられた瞬間、不自然に、唐突に止まったような気がしました。
(……レインハルト様?)
姿は見えず、声も聞こえません。
けれど厚い石壁の向こう側で、彼がわたしの存在を感じ取り、その動きを止めた。
そんな確信に近い予感が、わたしの胸を締めつけました。
そこに、彼はいる。
あんなに遠ざけようとしたわたしのことを、今、どのような想いで受け止めているのでしょうか。
もっと近くへ行きたい。
扉を叩いて、名前を呼びたい。
けれど、今のわたしにその勇気はありませんでした。
書庫を後にして外へ出ると、空はすでにわたしの瞳と同じ、燃えるような緋色に染まっていました。
日没の影が、足元まで伸びてきます。
(……急いで帰らなければ。彼との約束を、守るために)
背中を追いかけてくるのは、冷たい夜の風か、それとも――誰かの熱い視線なのか。
わたしの身体の奥底で、昨日よりも少しだけ強くなった熱が、小さなため息のように揺れました。
レインハルト様が恐れている何かが、わたしの知らないところで、着実に目覚めようとしていること。
その真実を知る日は、すぐそこまで迫っていました。




