6_葛藤の飛翔
校門へと向かう途中で、わたしはばったりと書庫から出てきたレインハルト様と出くわしました。
「あ……レインハルト、様」
「……シャルロットか」
彼は一瞬、逃げるように視線を逸らしましたが、わたしたちの帰る方向は同じです。
沈黙が痛いほど重い中、わたしたちは並んで歩き始めました。
さっきまで演武場で浴びせられていた、あの熱気と、魔法専科の生徒たちの歓声。
そして、回廊でクラリス様に囁かれた優しさの刃。
『もしあなたが苦しくなる日が来たら。……身を引く、という優しさも、あるのよ』
(あの言葉が、まだ胸に刺さったまま……)
街灯の魔石が淡く光り始め、夜の帳がゆっくりと降りてくるこの時間。
わたしの身体の奥からは、じわりと、あの「熱」が湧き上がってきていた。
(ああ、まただわ……。どうして最近、夜が近付くとこんなに胸の奥が落ち着かないのかしら……)
自分の肌から、花蜜を煮詰めたような甘い香りが、気配として滲み出ていることに――わたしは気づけませんでした。
「…………」
レインハルト様は、一言も発しません。
ただ、いつも以上に足早で、わたしからわずかに距離を置いて歩いている。
その横顔は、美術品のように美しく、そして冷徹でした。
一度もわたしを見ようとせず、指先さえ触れようとしない。
婚約者として、隣を歩いているはずなのに、心は果てしなく遠い場所にある。
(やっぱり、嫌われているのかしら。わたしのことなんて、もう、視界に入れたくもないほどに……)
悲しみと、身体の奥から突き上げてくる得体の知れない疼きに、わたしの理性は限界でした。
今、ここで繋ぎ止めなければ、彼は二度とわたしの元へは戻ってこないのではないか。
そんな恐怖に突き動かされ、わたしは彼の制服の袖を震える指で掴みました。
「…レインハルト様……」
「……何だ。急いでいるのだが」
立ち止まった彼は、やはりこちらを見ようとしません。
わたしは俯いたまま、消え入りそうな声で、けれど必死に想いを絞り出しました。
「……抱きしめて、ほしいの……」
「………っ!」
「お願いです、レインハルト様…。一度でいいから、わたしを、ちゃんと抱きしめて……」
その瞬間。
周囲の空気が破裂したように揺らぎ、木々が凪いだ。
わたしの中で押し込めていた「熱」が、言葉と一緒に溢れ出し――甘い香りの気配が、ふわりと濃くなる。
「……何だ、この匂い」
「急に……頭がぼうっとする……」
通りを歩いていた人々が、一斉に足を止めました。
振り返る視線が集まり、まるで舞台の上に引きずり出されたみたいで、わたしは身を竦めた。
怖い…どうして、…理由が分からない。
けれど――もっと怖かったのは、目の前のレインハルト様の反応でした。
「……くそ……っ」
彼は歯を食いしばり、喉の奥で苦しげに息を吐きました。
まるで、今ここで何かが決壊するのを必死に押し留めているみたいに。
彼の周囲の空気だけが張り詰め、魔力がきしむ音さえ聞こえそうでした。
「シャルロット、貴女は……っ!」
怒りに似た声と同時に、彼の手がわたしの手首を掴みました。
驚く間もなかった。
彼はわたしを抱き上げ、そのまま地面を蹴って宙へと舞い上がったのです。
「きゃああああああっ!!」
急激な浮遊感に、わたしは反射的に彼の胸元に縋りつきました。
黄昏時の冷たい風が頬を叩く。
けれど、彼の腕の中だけは熱を帯びていて、離れればたちまち凍えてしまいそうだった。
王国で唯一、彼だけが操れると言われる高度な飛行魔法。
レインハルト様は忌々しそうに顔を背けたまま、猛スピードでエリュシオン侯爵邸へと空を翔けていきます。
「……いいか、シャルロット。よく聞くんだ」
耳元で、彼の低く震える声が響きました。
それは甘い囁きではなく、必死に自分を律する者の声。
「夕暮れ以降にひとりで歩くんじゃない。……いや、違うな。君は――自分が周囲に与える影響を、分かっていない」
「え……? 影響……?」
「どういう条件かは把握する必要があるが…、とにかく。あまり必要以上に僕に近寄らないでほしい」
その言葉の意味が理解できず、わたしは唇を噛みました。
説教されている。
咎められている。
そう受け取ることしかできなかった。
(近寄らないでほしい……?)
―クラリス様の声が、また胸の中で鳴った。
(わたしが、彼の負担になっているの?)
彼の腕は折れそうなほど強くわたしを抱え、離そうとしません。
目は合わせないし優しく撫でることもしない。
ただ、怒りにも似た切迫と、制御しきれない魔力のうねりだけが、彼の本音を告げているようでした。
ですが、当時のわたしには、それが理解できませんでした。
わたしが勇気を振り絞って差し出した言葉は、彼にとっては「正されるべきもの」でしかないのだと。
彼は、わたしのことを疎ましく思っているのだと――そう思い込んでしまったのです。
(……あぁ、やっぱりダメなのね)
やがて見慣れた屋敷の輪郭が近づき、バルコニーが視界に入る。
彼はまるで仕事のように正確な動きで、わたしをそっと床へ下ろすと、距離を取る。
そして一度も振り返ることなく、再び夜の闇へと飛び去っていきました。
最後に残されたのは、胸に押しつけられた外套の温度と、
「自分は間違っている」と烙印を押されたような、惨めな気持ちだけ。
(こんなんじゃ、たとえ結婚したとしても……わたしは、彼の隣に立てないわ……)
バルコニーにへたり込み、わたしは声を殺して泣きました。
彼が書庫で調べていたのはなんだったのか。
空を飛んでいる間、彼がどれほどの緊張で何かと戦い、必死に自分を抑えていたのかも。
その時のわたしは、まだ何も知らなかったのです。




