3_遠い灯り、近いざわめき
あの日を境に、レインハルト様はそれまで以上にわたしを避けるようになりました。
それだけではありません。
彼は学園の特別書庫や、公爵邸にある膨大な古文書が眠る書斎に引き籠もるようになったのです。
レインハルト様は、王国最強の魔導師と称えられる天才。
すでに専門の魔法学科を優秀な成績で卒業し、今は「研究生」という、実質的には国の魔法研究を担う実務レベルの立場で学園に籍を置いている。
一方で、わたしは魔力なんてほとんど持たない普通科の一般的な学生。
彼が読んでいる難解なタイトルの魔導書――『太古の魔力変異に関する考察』だとか『亜人種における魔力触媒の特異性』だとか、わたしにはタイトルをなぞることすら難しいものばかり。
(彼はきっと、わたしとの時間の代わりに、あの難しい本を選んだのね……)
書庫の窓から漏れる魔法灯の明かりを見上げるたび、わたしたちの間の「格差」を突きつけられるようでした。
彼は真理を追い求める選ばれし者。
わたしは、ただの、彼に恋をしているだけの無力な娘。
その埋めようのない距離に、わたしの不安は雪だるま式に膨れ上がっていきました。
***
そんなある日。
普通科の教室は、朝から妙に浮き足立っていました。
「聞いた? 魔法専科、来週は演武場でペア戦ですって」
「レインハルト様が作ったゴーレムを壊すんでしょう? 噂だけで震えるわ……」
話題の中心は、今日も魔法専科。
誰かが名前を出すたび、そこだけ空気が甘く熱を帯び、わたしの席の周りだけが取り残されていくのが分かりました。
わたしはひとりノートの端を指でなぞっていました。
話題の中心にいる人は、わたしの婚約者なのに。
その輪の中で、わたしだけが透明になっていく。
「でも、レインハルト様って、どうしてあんなに完璧なのかしら」
「血筋よ、血筋。ヴァルテンベルク公爵家だもの」
「魔導の名門ですものね」
胸が、ひくりと痛む。
悪意がないからこそ、余計に刺さる。
(わたし自身は、何も持っていない)
その矛盾が、胸の奥に小さな棘のように刺さって、抜けませんでした。
周囲の好奇心が悪意ではないと分かっているのに、笑って聞き流すだけの余裕がない。
「すごい人の婚約者」であることが、いつの間にか「自分もすごくなければならない」という圧になって、息を詰まらせてくる。
このままでは、またひとりで沈んでしまう。
そう思った瞬間、机の横に影が落ちました。
「よっ。エリュシオン侯爵令嬢。ここ、空いてる?」
顔を上げると、赤い髪に青い瞳の青年が、遠慮なく笑っていました。
同じ普通科の貴族――リオネル・ヴァレンティーヌ。
「……ええ、どうぞ」
「助かる! ……っていうかさ、今の顔。完全に置いていかれてる顔だった」
「そ、そんなの分かりますの?」
「分かる分かる。オレもさっき同じだった。ほら」
リオネルはどさっとノートを開いて、板書の途中で途切れたページを指で叩きました。
そこには、線が消えたみたいに文字が途切れている。
「『第三式変換』のところで死んだ」
「……わたしもですわ」
「だろ? 先生、速すぎ。腕ちぎれるかと思った」
冗談みたいに肩を回す仕草が、教室のざわめきの中で不思議と大きく見えて。
わたしの張り詰めていた呼吸が、少しだけほどけました。
リオネルは周囲の会話を聞いているふりをしてから、わざとらしく顔をしかめる。
「また魔法専科の話か。いや、すげぇのは分かるけどさ。ここ普通科だっつーの」
「皆さん、憧れてしまうのですわね」
「憧れで済めばいいけど。たまに格付けみたいになってんの、オレ嫌い」
そう言いながら、彼はふっと自分の手のひらを見せました。
指の付け根が赤く、ところどころ皮が固くなっている。
「……お怪我?」
「怪我じゃねぇよ、勲章。騎士見習いの訓練、マジで容赦ないんだわ」
「リオネルは騎士見習いなの?」
「そ。学園じゃ剣の専攻ないだろ?だから放課後と週末、外でしごかれてる」
得意げに言ってから、彼は急にパンが入った袋を机の上に置きました。
包み紙から香ばしい匂いがして、わたしは思わず視線を奪われる。
「あと腹減った。今日、朝から訓練だったから」
「もうすぐ次の授業が始まりますわ」
「分かってるって。匂いだけで我慢する」
「ふふふっ…」
思わず口元が緩む。
笑ってしまった自分に、少し驚く。
リオネルは満足そうに頷いて、さらに軽口を重ねた。
「あ、笑った。……そっちのがいいって。なんかさ、いつも考えすぎてる顔してる」
「……そう見えますの?」
「見える見える。オレ、そういうの気づくの得意。剣だって相手の癖見るだろ?」
彼は一度、視線を泳がせてから、ぽつりと付け足しました。
「婚約者がすげぇ人でも、本人が『何もない』わけじゃねぇし」
「え……」
「『今ない』だけ。オレだって魔法ないけど、剣で行くって決めた。比べなくていい」
その言葉は、優しい慰めというより乱暴なくらい真っ直ぐで。
だからこそ、胸の奥に引っかかっていた棘が、少しだけ緩む気がしました。
リオネルは急に大げさに背筋を伸ばして、教壇の方を見ます。
「よし、共同戦線な。オレのノート死んでるから、後で見せてくれ」
「共同戦線……」
「そう。代わりにオレは、購買のパン争奪戦でシャルロットを守る。騎士見習いの本領発揮だ」
「ふふ」
「そうそう、笑顔の方が似合うぜ」
似合う、という言葉が、ふっと胸に落ちました。
それは、誰かの『最強』の影としてではなく、わたし自身を見てくれる言葉に思えたから。
けれど同時に、思い出してしまうのです。
昨夕も、書庫の窓に灯っていた魔法灯。
わたしを避けるように、遠ざかるレインハルト様の背中。
(……このまま、距離は広がっていくのかしら)
息が詰まりかけた、そのとき。
「なぁ、シャルロット。来週の演武場見学、行くだろ?」
「……え?」
「普通科にも見学枠あるって聞いた。魔法専科のペア戦。……正直、でかいゴーレムってだけで見たい」
リオネルの軽い調子に、わたしの思考が引き戻されます。
「……行きます。ええ、行きたいですわ」
「決まり。じゃ、オレが隣で騒ぐ。怖くなったら『うるさい』って言って」
「……言いませんわ」
「言えって。オレ、そのために騒ぐから」
その言い方がおかしくて、わたしは小さく息を吐きました。
逃げ道ではなく、隣に立ってくれる人がいる。
たったそれだけで、教室の空気が少しだけ呼吸しやすくなったのでした。
けれど、演武場――その単語を耳にした瞬間、胸の奥がひやりとざわめきました。
そこにはきっと、“彼”がいる。わたしの世界の中心で、いま最も遠い人が。




