2_拒絶と苦悩
わたしは爪先立ちになり、彼の整った頬に手を添え、吸い寄せられるようにその唇に自分のそれを重ねた。
「っ! ……」
数週間ぶり。
いいえ、もっと長く感じられた接触。
触れ合った瞬間、彼の体温が痛いほどに伝わってきて、胸の奥がほどけそうになる。
なぜ、わたしを遠ざけるのですか。
なぜ、以前みたいに、優しく抱きしめてくれないのですか。
(好き。好きです、レインハルト様…――)
その想いだけが、わたしの視界を白く染めていました。
わたしが離れようとしないのを悟ったのか、彼は堪えきれないように息を呑み――次の瞬間。
彼の掌がわたしの頭を引き寄せました。
唇が、先ほどより深く、強く重なる。
甘いというより、必死で。
優しいというより、危うい。
息が奪われ、頭の中が空っぽになっていく。
親同士が決めた婚約、恋人同士のようなことをするようになったのはいつ頃からでしょう、そして、あなたから触れてくれなくなったのは……。
まだ気持ちが残っているのなら繋ぎ留めたいと…、心が離れ始めたような振る舞いをする彼に縋るような思いで身を寄せる。
(……抱きしめて)
その願いが心の中で声になるより先に、
「————ッ!!」
―ドンッ。
わたしは力任せに引き離され、背中を壁に打ち付けました。
「……っ、はぁ……」
呆然と見上げると、レインハルト様はかつて見たことがないほどに乱れていました。
額には汗が滲み、いつも涼しげな頬は熱に浮かされたように赤い。
けれどその赤みは、甘い高揚ではなく――耐える者の色だ。
「……なるほど。自覚が無いのか? この僕に、危害を加える意図は無いと……本当に?」
「危害……ですって?」
訳が分からず問い返しましたが、彼は答えません。
彼は肩で息をしながら、胸元を押さえ込むように拳を握っていました。
その指先が、目に見えて震えている。
「…夜が近付くにつれ、君の体からにじみ出るその花のような甘い香りは、なんなんだ? まるで、古文書に出てくる誘惑の毒に……似すぎている」
「香り? なんのことですの? ……わたしは人間ですわ!」
「いや、ただの人間なはずはない……これほどまでに、僕の理性を――…」
最後の方は声が掠れて聞き取れませんでした。
必死に否定しましたが、わたしの声は彼に届いていないようでした。
彼は酩酊したように視線をさまよわせ、わたしのすぐ側に漂っているであろう——わたしには決して感じることのできない「甘い香り」から逃れるように、一歩、また一歩と後ずさる。
レインハルト様は歯噛みし、自分自身の内側で暴れ回る「何か」を必死に抑え込もうとしているようでした。
彼がこれほどまでに苦しみ、わたしを拒絶する理由。
それがわたしの身体から発せられているという「香り」にあるのだとしたら。
わたしは震える手を彼の方へと伸ばしました。
けれど、彼はその手を取ることも、払うことさえせず、ただ床の一点を見つめたまま、地を這うような声で告げたのです。
「……すまないが、一人で教室に戻ってもらえるか」
「……はい…………」
それ以上、何も言えませんでした。
彼の瞳は一度もわたしと合いませんでした。
苦しげに顔を歪めるレインハルト様の姿は、愛を語らう婚約者のものではなく、まるで――触れてはならない「毒」を前にした人のようでした。
夕闇が廊下を飲み込んでいく中、わたしは逃げるようにその場を去りました。
振り返る勇気なんてありません。
ただ、背後で彼が壁を叩くような鈍い音が聞こえた気がして、わたしの心はさらに深く沈んでいきました。
彼に嫌われている……?
いえ、それどころか、わたしという存在そのものが、彼にとっての「害毒」なのだろうか。
***
あの日を境に、レインハルト様はそれまで以上にわたしを避けるようになりました。
それだけではありません。
彼は学園の特別書庫や、公爵邸にある膨大な古文書が眠る書斎に引き籠もるようになったのです。
レインハルト様は、王国最強の魔導師と称えられる天才。
すでに専門の魔法学科を優秀な成績で卒業し、今は「研究生」という、実質的には国の魔法研究を担う実務レベルの立場で学園に籍を置いていらっしゃる。
一方で、わたしは魔力なんてほとんど持たない普通科の一般的な学生。
彼が読んでいる難解なタイトルの魔導書――『太古の魔力変異に関する考察』だとか、『亜人種における魔力触媒の特異性』だとか――わたしには、タイトルをなぞることすら難しいものばかりです。
(彼はきっと、わたしとの時間の代わりに、あの難しい本を選んだのね……)
書庫の窓から漏れる魔法灯の明かりを見上げるたび、わたしたちの間の「格差」を突きつけられるようでした。
彼は真理を追い求める選ばれし者。
わたしは、ただ彼に恋をしているだけの無力な娘。
その埋めようのない距離に、わたしの不安は雪だるま式に膨れ上がっていきました。
(――わたしは、いったい何者なの)
その問いだけが、夜の底へ落ちていきました。




