1_氷の仮面と絶望の夜
その香りは、救いか、それとも破滅か。
かつて一国を滅亡させたとされる、禁忌の血――。
無自覚に「芳香」を振りまく令嬢と、彼女を壊さぬよう自らを殺して愛した貴公子。
すれ違う心と、抗えない本能が交差する夜、二人の運命は甘い地獄へと堕ちていく。
◆ 読者の皆様へ
本作は、独占欲/執着/理性崩壊を軸にしたダークロマンスです。
一部ショッキングな展開を含みます。苦手な方はご注意ください。
それでは、月夜に溶ける蜜の毒をお楽しみください。
婚約者であるはずの人に、
いつからか避けられるようになった。
理由も告げられないまま、
触れ合うことさえ拒まれて、それでも私は――
王国最強の魔導師、レインハルト様を想い続けていた。
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窓の外では、夜の帳とばりがしんしんと降りてくる。
銀色の月光が差し込む静謐な部屋で、わたし――エリュシオン侯爵家の長女、シャルロットは、鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。
薄紫色の柔らかな髪は、夜の闇に紛れるとどこか幻想的な光を帯びて揺れる。
珍しい緋色の瞳は、家族の誰にも似ていない。
けれど、たった一人、わたしがその瞳に映してほしいと願う人だけは、いつからか、わたしの目を真っ直ぐに見てはくれなくなった。
レインハルト・イル・ヴァルテンベルク小公爵。
王国最強の魔導師としての誉れ高く、同じ学園に通う先輩であり、親同士が決めたわたしの3歳年上の婚約者。
「…………っ」
わたしはネグリジェの裾をギュッと握りしめ、机に置かれた彼からの手紙を、穴が空くほど見つめた。
【舞踏会には行けない。 ――レインハルト・イル・ヴァルテンベルク】
たった一行、冷たく事務的な拒絶の言葉。
本来ならば婚約者である彼がわたしの手を取り、エスコートしてくれるはずの夜だった。
婚約したばかりの頃の彼は、あんなにも優しかったのに。
「シャルロット」と名前を呼んで、はにかむようにわたしの手を取ってくれた。
あの時の、大きくて温かな手のひらの温度を、今も昨日のことのように思い出せる。
初めてのキスは彼の十九歳の誕生日、馬車の陰でふいに唇を奪われたときの触れるだけの甘いものだった。
なのに数か月が経つ頃から、彼は目に見えてわたしを避けるようになった。
会話は途切れ、指先が触れることさえなくなった。
(もしこの婚約が親同士の独断でなければ、わたしのような女を彼が選ぶはずもないのだから……)
そこまで考えて、わたしは惨めな思考を無理やり止めた。
これ以上自分を卑下すれば、彼を想う心まで汚してしまいそうだったから。
(明日、学園で……ちゃんとお話ししよう)
震える呼吸を整え、わたしは豪奢なベッドの中に身体を潜り込ませた。
身体の奥底に、自分でも気づかない「熱」が、小さな火種のように燻くすぶっていることなど知る由もなく。
冷え切ったシーツの感触に震えながら、わたしはただ、冷たい月光が降り注ぐ夜の闇に瞳を閉じた。
***
王立ラピスラズリ学園の午後は、いつも残酷なほどに輝いている。
昨夜心に決めた通り、わたしは放課後の喧騒を縫って彼を追いかけた。
中庭を横切るレインハルト様の周囲には、相変わらず多くの令嬢たちが蝶のように群がっている。
「そのリボン、春らしくてよく似合っているね」
彼が自然な仕草で声をかけ穏やかな微笑みを返すたび、令嬢たちは頬を染めてため息をつく。
黄金の瞳に慈愛を湛えたその姿は誰の目にも完璧な貴公子だった。
けれど、わたしがその視界に入った瞬間。
彼の肩がびくりと跳ね、僅かに息を呑む気配があった。
直後、春の陽だまりのような空気は一変する。
「……何か用だろうか、エリュシオン侯爵令嬢」
周囲の令嬢たちが同情を孕んだ視線を残して去っていく中、向けられた声は氷壁を叩く風のように冷淡なものだった。
わたしは胸を刺す痛みを堪え、人目を避けるようにして、彼を人気のない旧校舎の廊下へと誘った。
薄暗い廊下には西日がオレンジ色の影を落としはじめている。
わたしは震える指先を隠しながら、彼からの手紙を思い出しながら問いかけた。
「あの……どうして、舞踏会のエスコートをお断りになったのですか? 昨夜もまた、あんなに短いお手紙をいただいて……」
「行きたくないんだ。君と、夜に出歩きたくない」
彼は一度もわたしの瞳を見ようとしなかった。
壁に視線を固定したその横顔は、ひどく強張っている。
まるで、わたしを「見たくない」のではなく「見られない」のだと言わんばかりに。
「ど、どうして……っ」
「どうしてだって?……気付いていないのか? ……そんなはずはないだろう」
レインハルト様の声に、これまでにない険しさが混じる。
気付いているはず、そう言われても、わたしには何のことだか理解できなかった。
彼が何を忌み嫌い、何を遠ざけようとしているのか。
「分かりません、分かりません……っ!」
叫ぶようなわたしの声が、静かな廊下に響き渡る。
悲しみと、そして夕闇が近づくにつれて身体の奥からせり上がってくる原因不明の「熱」に突き動かされ、わたしは無我夢中で彼の元へ歩み寄った。
(これ以上拒まれたら、きっともう耐えられない――)
彼は逃げようとはしなかった。
ただ、近づいた瞬間に浅く呼吸を乱し、彫刻のように硬く強張ったまま、そこに立っていた。
わたしは爪先立ちになり、彼の整った頬に手を添え、吸い寄せられるようにその唇に自分のそれを重ねた。
「っ!……」




