23_審判の部屋
その日の朝は妙に空が高く、学園の尖塔がいつもより遠く見えました。
風は冷たいのに、胸の奥だけが落ち着かない。
理由の分からないざわめきが制服の襟元から忍び込んできます。
「シャル、大丈夫だ。そんなに怯えなくていい」
わたしたちは今、学園長室へと呼び出されていました。
隣を歩くレインハルト様の声は、低く絶対的な安心感を伴ってわたしの鼓膜を揺らします。
彼の黄金の瞳にはかつての冷淡さなど微塵もありません。
あるのは恋人を慈しみ、自分の色に染め上げた満足感と、他者を寄せ付けない凄まじいまでの独占欲だけでした。
「万が一のことがあったとしても、僕がなんとかする。……心配しないで」
「は、はい……」
数日前から、学園内には不穏な空気が流れていました。
なんでも、「原因不明の魔力波形の乱れ」が観測され、それが学園の安全管理上の問題となっている……というのです。
わたしはその「乱れ」の正体が、この身体から溢れ出す甘い「誘惑の香り」であることを自覚していました。
レインハルト様に欲情してしまうたび、本能が勝手に暴走し、見えない霧となって近くの異性の理性をじわじわと侵食していく……。
レインハルト様が、クラリス・ヴァレンティーヌ様から届いた「脅迫状」を、あの日、無造作に指先一つで灰にしてしまっていたことを、わたしは知りませんでした。
彼にとってはクラリス様の忠告も、学園の秩序も、わたしの首筋に顔を埋めてその香りを堪能する喜びに比べれば、塵あくたのようなものだったのでしょう。
けれど、無視されたクラリス様の執念は、わたしの想像を絶するものでした。
重厚な学園長室の扉が開くと、そこには重苦しい沈黙が堆積していました。
部屋の中央には学園長である大魔導師モーリスと、安全管理委員会の数名の教授たちが厳しい顔で並んでいます。
そしてその傍らには、自らの「正義」を確信しきったような、冷たく澄んだ目をしたクラリス・ヴァレンティーヌ様が立っていました。
「失礼いたします。学園長、お呼びでしょうか」
レインハルト様の声が響くと、室内の魔圧がぴしりと弾けました。
彼は、わたしを背後に隠すようにして一歩前に出ます。
その立ち振る舞いは罪を問われる者ではなく、愚かな者たちを裁きに来た支配者のそれでした。
「レインハルト・イル・ヴァルテンベルク研究士官生。そして、シャルロット・エリュシオン君。……君たちを呼んだ理由は、説明するまでもないだろう」
学園長が、分厚い眼鏡の奥からわたしを凝視しました。
その鋭い視線が、わたしの異常なまでの成長――あるいは変容を舐めるように観察し、微かに恐怖を含んで揺れています。
わたしは恐怖で指先を震わせ、無意識にブラウスの襟元を掴みました。
「ここ最近、学園の研究棟を中心に、空間を歪めるほどの異質な魔力波形が観測されている。先週だけでも防護結界に三度の亀裂が入った。さらに恐ろしいことに、出入りしていた若手教師が数名、原因不明の精神錯乱を起こして倒れ、一部の男子生徒の間では衝動的な暴力行為すら報告されているのだ」
学園長の言葉に、教授たちが青ざめた顔で頷きます。
「これはもう、ただの安全管理の不備ではない。学園全体、ひいては王都を揺るがしかねない『精神汚染』規模の魔力災害だ。……そしてヴァレンティーヌ君が、その源流を特定した。それが、エリュシオン君、君から発せられているというのだ」
「学園長のおっしゃる通りですわ」
クラリス様が一歩前に出ました。
彼女の目に、かつてのような嫉妬の炎はありません。
氷のように冷たく、学園の秩序を守る代弁者としての揺るぎない正義が宿っていました。
「個人的な感情で申し上げているのではありませんわ。わたくしはただ、この学園を守りたいだけです。……この波形は、決して自然現象などではありません。エリュシオン嬢……貴女、一体どんな禁忌の黒魔術をその身体に仕込んだのですか? あるいは、悪魔と契約し、その美貌と肉体を手に入れたのではないですか?」
真っ直ぐにわたしを射抜く、糾弾の声。
リリスの血、淫魔の末裔。
代々その血に封印されてきたであろう、一国を滅ぼしかねないほどの「女としての毒」。
それをレインハルト様が、その強大な魔力で無理やり捻じ伏せ、今のわたしを作り上げたのです。
これこそが禁忌でなくて、何だというのでしょう。
わたしは彼の背中に隠れたまま、震えていました。
けれど――ただ逃げているだけでは、彼も、学園の人たちも、もっと不幸にしてしまう。
そう思ったわたしは、震える両手をぎゅっと握りしめ、自らレインハルト様の横へと歩み出ました。
「わたしは……そんな、悪魔と契約などしておりません」
「シャル……」
レインハルト様が驚いたようにわたしを見下ろします。
わたしは学園長とクラリス様を真っ直ぐに見つめ返し、震える声で言葉を紡ぎました。
「わたしは、自分が普通ではないことには気づいています。この身体に、何かおそろしい力が眠っていることも……」
息を呑む教授たちの前で、わたしは必死に訴えます。
「ですが、決して誰かを傷つけたいわけではないのです。悪意を持って誰かを狂わせようとしたことなど、一度もありません。どうか……っ」
「――見てください、この姿を!」
わたしの言葉を遮るように、クラリス様がわたしの身体を指差しました。
「彼女自身が普通ではないと認めています。数週間前まで、彼女はこれほどまでの魔力も、そして……この不埒な、男を惑わすような身体も持っていませんでした! これは生命の真理を捻じ曲げる外法です! 学園長、今すぐ鑑定の魔道具を使い、彼女の正体を暴くべきですわ!」




