24_浄化の大義名分が消えた日
「実験」という名の秘め事が始まってから、ふた月ほど経ったある日のことでした。
行為を終え、乱れた呼吸を整えながらベッドの上で肌を寄せ合っていたわたしたちは、ふとした違和感に気づいたのです。
「……そういえば、シャルロット。もう二か月ほど、こうして愛し合っているが……」
レインハルト様が、わたしの下腹部に手を当てながら首を傾げました。
「……月のものが、来ていないのではないか?」
「え……? あ……っ!!」
言われてみれば、その通りでした。
淫魔の血が覚醒し、彼との濃密な日々に没頭するあまり、女性としての周期のことなど完全に失念していたのです。
***
翌日、わたしたちは極秘で王都の産科医を訪れました。
高名な公爵家の次期当主と、その婚約者の突然の訪問に医師は驚愕していましたが、診断の結果は明快でした。
「……おめでとうございます。懐妊されていますよ。確かに、ここに小さな鼓動が宿っています」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心は、驚きよりも先に純粋な喜びで満たされました。
「まあ……! わたしと、レインハルト様の子が……!」
思わずお腹を撫で、ふにゃりと頬を緩めるわたしに対し、レインハルト様は雷に打たれたような顔で立ち尽くしていました。
彼のなかでは、喜び以上に、自身の情欲が招いた結果に対する「責任感」と「罪悪感」が嵐のように吹き荒れていたのでしょう。
帰り道の馬車、豪華な内装に囲まれた静寂のなかで、レインハルト様は沈痛な面持ちで口を開きました。
「……シャルロット。……すまない。婚姻前に、このようなことになってしまって……」
絞り出すような、悔恨の滲む声。
あの魂の契りを結んだ日以来、わたしが望むままに「浄化」という名の交わりを繰り返してきた張本人が何を言っているのだろう……と、少しだけ可笑しくなってしまいました。
「レインハルト様、お顔を上げてくださいませ。……わたし、体質を治すために貴方の『精気』が必要だとわかったときから、こうなることは覚悟……いえ、むしろ望んでいたことですわ」
わたしは隣に座る彼の大きな手を、両手で包み込むように握りしめました。
「あなたのお子を授かれて、わたしは本当に幸せですわ」
満面の笑みを返すと、レインハルト様は一瞬だけ呆然としたあと、壊れ物を扱うような手つきでわたしを抱き寄せました。
「シャル……、シャルロット……。愛してる。……一生、君とこの子を守り抜くと誓うよ」
何度も、何度も、慈しむような口づけを交わしました。
彼の唇からは、それまでの「義務感」が消え、一人の男としての、深く重い愛情が溢れ出していました。
幸せな沈黙が流れるなか、レインハルト様はふと、自身の顎に手を当てて思考の海に沈みました。
それは彼が何か重大な真理を導き出したときに見せる、魔導師としての癖でした。
「……そうだ。一つ、重要な発見があったんだ。今日の診察の結果で、僕の抱いていた仮説が確信に変わった」
「まあ、なんでしょう、レインハルト様」
わたしが小首を傾げると、彼はわたしの指先を愛おしげに絡めながら、静かに語り始めました。
「実は『実験』を開始してまもなく、君から放たれるあの誘惑の香りが、徐々に小さくなっているのを感じていた。最初は僕が施した術式や『浄化』が上手く機能しているのだと思っていたけれど……おそらく、理由はそれだけじゃない」
「……違うのですか?」
「ああ。『受胎し、身籠ると、誘惑の香りが立ち上がらなくなる』……というのが、現状最も有力な仮説だ。リリスの血は、本来は男の精気を求めるためのもの。しかし、新しい命を宿した瞬間、母体とその結晶を守るための防衛本能として、外への誘惑を遮断する体の仕組みが働くのかもしれない」
レインハルト様は淡々と、まるで論文を読み上げるように説明を続けます。
「つまり、君のその体質を封じるために必要なことは『浄化』と『妊娠』の二つだったんだ。妊娠期間中は、理論上、必要以上に浄化を行わなくても、香りが漏れ出すリスクは極めて低い。……もちろん、例外はあるだろうが、のちのち検証を……」
「まあ! まあ……そうでしたのね。たしかに、赤ちゃんを守るためだと考えれば、とても神秘的で納得のいくお話ですわ」
わたしは生命の神秘、そして自分のお腹のなかで起こっている奇跡に感動し、両手で自分の頬を挟んではしゃいでしまいました。
しかし、はしゃぐわたしの目の前で、レインハルト様はなんとも言えない、複雑な表情を浮かべていらっしゃいました。
魔導師として正解を導き出した喜びなどそこにはなく、まるで大切な拠り所を失ってしまったかのような、あるいは「言い訳」を取り上げられてしまった子供のような……そんな、酷く心細げな揺らぎ。
わたしは、瞬時に気づきました。
(……ああ。レインハルト様は、怖がっていらっしゃるのだわ)
彼は、「香りを抑えるため」という大義名分がなくなることを恐れているのです。
浄化が必要なくなれば、わたしをあんなに抱く理由がなくなってしまう。
理性的で高潔な彼にとって、ただの情欲だけで婚約者を求めることは、彼自身のプライドが許さないのかもしれません。
わたしは、彼のその愛らしい葛藤に気づかないフリをして、最高に無垢な微笑みを浮かべました。
「でも、レインハルト様。理由がどうあれ、わたしは貴方との夜を、これからも重ねていきたいですわ」
「え……? だが、シャルロット、身体に負担が……」
「お医者様にも相談して、無理のない範囲で、ゆっくりと愛し合いましょう? わたくしの心と身体は、もう貴方なしではいられないのですもの」
にっこりと、天使のような慈愛を込めて笑いかけるわたし。
淫魔の血が流れているというのに、その微笑みは聖女のように清らかだったことでしょう。
ですが、これは心からの本音でした。
レインハルト様の精気は、もはやわたしにとって単なる生命の供給源ではなく、わたしの心身を芯から歓喜させ、充足させる「極上の霊薬」となっていたのです。
わたしのあまりに率直な誘いに、レインハルト様は目を見開きました。
そして、自分の中に芽生えていた不安が杞憂であったことを悟ったのでしょう。
彼は込み上げる喜びを押し殺すように、けれど頬を微かに染めて、嬉しそうな顔で呟きました。
「……そうか。そうだね。君がそれを望むなら……僕も、全霊をかけて応えよう」
その声には、先ほどまでの理論めいた響きはなく、ただ一人の男としての、熱い独占欲が滲み出ていました。
馬車が夕闇のなかを揺れていきます。
わたしたちを繋いでいた「浄化」という名の義務は、今この瞬間、純粋な「愛欲」という名の幸福へと昇華されました。
これから、そしてその先も。
たとえ香りが消えようとも、わたしたちは互いの肌を求め、魔力を重ね、さらに深く、甘い隷属の森へと分け入っていくのでしょう。
お腹のなかの新しい命とともに、わたしたちの物語は、誰にも邪魔できない至福の絶頂へと向かって加速していくのでした。




