34_父を呼び戻す者 レインハルトside
馬車の車輪が石畳を転がる単調な音が、ひどく耳障りに鼓膜を叩く。
僕は今日、影魔法の宗家であるランドウィン侯爵邸へ赴き、転移門と影魔法の複合術式に関するさらなる魔導書の解読を進めていた。
犯人がその複合術式を用いて国境の結界をすり抜けた可能性は高い。
だが、それは古代魔術の一つであり、今の世では禁術に近い。
それを成し得た術者が極めて限定的であることが浮き彫りになっていく。
窓の外を流れる王都の街並みは、すでにオレンジ色の夕闇に染まり始めていた。
公爵邸へ向かう帰路の中、僕の頭を占めているのはシャルと、未だ帰還しないリオンとアルテミス、サリエスたちのことだった。
(あの子たちは、一体どこまで踏み込んでいるんだ……)
あの十四歳の長男と十二歳の双子が、大人顔負けの無茶をしていることだけは想像がつく。
彼らが危険な目に遭っていないか。
そして、シャルに繋がるどんな絶望的な答えを持ち帰ってくるのか。
(グリオールが止めなかったら僕はすぐにでも後を追っていただろう)
焦燥感が胸を掻き毟り、膝の上で組んだ手にぎゅっと力が入る。
やがて馬車はヴァルテンベルク公爵邸の正門を抜け、車寄せに静かに停車した。
重い足取りで玄関の扉を開けると、広々としたエントランスホールからドタバタと走り回る足音と、高い笑い声が飛び込んできた。
「こらこら、お前ら! 俺の髪を引っ張るんじゃねぇ!」
「きゃああっ! グリオールおじちゃんが怒ったー!」
「逃げろー!」
見れば、グリオールが四歳の三つ子たちや十歳のリリアン、七歳のイリスたちに囲まれ、床に転がって大立ち回りを演じている。
巨大な熊が小ウサギたちと戯れているようなその光景に僕は思わず足を止め、目を瞬かせた。
妻を失い、僕が絶望の底に沈んでからというもの、この邸から子どもたちの無邪気な笑い声は完全に消え失せていた。
それが今、悪友の不器用な優しさによって、ほんの少しだけ息を吹き返している。
驚きと微かな微笑ましさが胸をよぎる。
……本当に、僕よりも父親業が向いていそうだ。
「あ、パパだ!」
僕の姿に気づいたヴィオラが、グリオールの背中から飛び降りて駆け寄ってきた。
それに続いて子どもたちが次々と僕の足元へと集まってくる。
僕は身を屈め、飛び込んできた小さな身体を抱き止めた。
ふわりと香るベビーパウダーと微かな汗の匂い、温かい体温。
「パパ、おかえりなさい!」
「――ああ。ただいま」
シャルと僕の血を分け合い、シャルの命を削って産まれてきた、愛しい子どもたち。
――シャル。
(もしこのまま、彼女との繋がりが絶たれた状態が続けば……あと数週間もしないうちに僕の身体には深刻な禁断症状が現れ始めるだろう)
四年前、ベルツに出征していた時と状況は似ているが……。
理性を失い、全身に渇望飢餓状態の症状が現れ、いずれは狂乱の中で自壊する。
最強と謳われた魔導師の、あまりにも惨めな末路。
(だが、それは……同時にシャルの命の危険信号でもある)
僕の魔力供給を断たれたシャルは今、どれほどの苦痛を味わっているのだろうか。
話を聞く限りでは、四年前はひと月以上耐えられたとは言っていたが……。
あの時のような衣食住が保証されているわけでもない。
あるいは、ライゼンの時のように男たちを捕食しているだろうか。
(生きるために身体を開き、その精気を貪ったとしても誰が咎められようか)
どちらにせよ、想像するだけで胃液が込み上げてきそうになった。
「うっ……!」
最悪の想像が脳髄を焼き、僕は口元を手で押さえて床に膝をついた。
視界がぐらりと揺れ、背筋を脂汗が這い落ちる。
胃液が喉元まで逆流してくる不快感に、僕は荒い息を吐きながらうずくまった。
「パパ!?」
「お父様大丈夫!? お顔が真っ白よ!」
僕の異変に驚いた子どもたちが、不安そうに僕の背中を小さな手でさすってくれる。
グリオールも顔色を変えて立ち上がり、こちらへ駆け寄ろうとした。
「はぁ、はぁ、はぁ……。……やはり、もう待てない――……、手元で出来ることはやり切った。ベルツに行く」
「お前、ちょっと待てよ、レインハルト……!」
グリオールが声を荒げる。
――バンッ!!!
その時、エントランスの重厚な扉が蹴り破られんばかりの勢いで乱暴に開け放たれた。
「父上!!」
吹き込む夕風と共に飛び込んできたのは、息を切らし、マントを泥だらけにした長男のリオンだった。
その後ろには同じく息を弾ませたサリエスとアルテミス、そして久方ぶりに顔を見たクラリスとイザベラの姿があった。
「リオン……!?」
僕は吐き気を飲み込み、ふらつく足で立ち上がった。
帰還した彼らの全身からは極度の疲労と、空間跳躍を繰り返したことによる濃密な魔力の残滓が立ち昇っている。
だがリオンの金色の瞳は、かつてないほどに強烈な光と、確固たる意志を放っていた。
「父上! 母上の居場所が分かりました!」
リオンの声がエントランスホールに鋭く響き渡る。
「犯人はベルツ王国使節団団長、サミュエル・クーパー! 母上はベルツの『鉄牙の要塞』の地下から繋がる虚数空間に囚われています!!」
――サミュエル・クーパー。
鉄牙の要塞。
虚数空間。
親善試合後の夜会で殊勝にあいさつをしてきていたあの男が、僕の最愛を奪ったのか。
「父上の力でなければ、あの虚数空間の壁はこじ開けられません」
リオンは僕の真っ青な顔を真っ直ぐに見据え、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「立ってください! 最強の魔導師、レインハルト・イル・ヴァルテンベルク!!」
――ドクン。
僕の心臓がこれまでとは全く違う、巨大な熱量を伴って跳ねた。
吐き気も、絶望も、無力感も。
僕を縛り付けていたすべての泥沼が一瞬にして蒸発していく。
視界を覆っていた霧が晴れ、僕の黄金の瞳に太陽のように強烈で、冷酷な理性の光が戻っていく。
「……よくやってくれた。リオン、サリエス、アルテミス。すまないが、王宮の魔導部隊を編成する時間すら惜しい。僕はこれから一人で向かう」
僕は低く、静かな声で言った。
自分でも驚くほど声には一点の濁りもなかった。
「父上……いけません」
「僕たちも行きます!」
「お母様を助けに!」
「……君たちは……。……仕方ないな。こちらの動きが感づかれる前に奇襲する。……二時間で戦闘の準備をしてくれ」
シャル、子どもたちの力を借りても良いだろうか。
僕のすべてを教えてきた彼ら。
その瞳の奥の意思は固かった。
その後ろからクラリスとイザベラが進み出る。
「レインハルト様。退役した身ではありますが……どうか、我々も救出作戦の末席にお加えください」
「お一人で向かわれようとするなんて。……ランドウィンの影魔法が必要になるやもしれません。私も……」
かつての優秀な部下たちが命の危険をも顧みず、僕と共に死地へ赴く覚悟を示してくれている。
僕は彼らの顔を一人一人見渡し、頭を下げた。
「ありがとう。……そして、すまなかった。情けない姿を晒して。」
顔を上げると、僕の全身から抑えきれない黄金の魔力が陽炎のように立ち上り始めた。
空気が軋み、床の大理石が微細な振動で鳴動する。
「すぐにでも転移門を開こう。座標はベルツ王国『鉄牙の要塞』」




