33_虚数の向こう側 リオンside
サミュエル・クーパー。
母上を攫った犯人の正体が確定し、冷たい北風が吹きすさぶ広場に重い沈黙が落ちた。
「でも、どこにいるかはまだ――」
「そうですね、サリエス様。魔法省が親善試合に来ていた特使を最優先で波形照合に向かったはずですが、未だに協力が得られていないところをみると、どこかに姿を隠しているはず」
「お父様、あの様子だとベルツ全土を焦土にしてしまうわ……」
アルテミスが心配そうに眉毛を下げる。
一国の公爵夫人を誘拐するということは戦争を仕掛けられたと同義語。
正直、僕は当然の報いだとも思うけれど、今はそれよりも時間の無駄は避けたい。
全面戦争は最後の手段に残しておくべきだ。
「イザベラさん、クラリスさん。この残された魔法陣の断片から、サミュエルが展開した『転移門の魔法陣』そのものを復元することはできませんか? 通常、転移門の陣には転移先の座標が刻まれているはず……!」
僕の提案に二人は顔を見合わせた。
一度使われて消えかけている魔法陣を形として再構築する。
魔法省の専門家であっても容易なことではないはずだ。
「……水の『記憶力』で元の魔法陣の形を炙り出し、影の『復元力』でそれを物質的にトレースする。……このぐらい陣が残っていれば不可能ではありませんわ」
「ええ。複合魔導のひとつだわ。やってみましょう」
クラリスさんとイザベラさんが広場の中央で向かい合うようにして立った。
クラリスさんが両手をかざすと空気中の水分が寄り集まり、薄い水のベールとなって石畳の表面を覆っていく。
水が淡い青色の光を放ち、過去の時間を巻き戻すように空間にこびりついた魔法陣の形を浮かび上がらせる。
「影よ、その記憶をなぞりなさい」
イザベラさんが低く詠唱すると、彼女の足元から墨汁のような真っ黒な影が這い出した。
影はクラリスさんが浮かび上がらせた見えない記憶の輪郭に沿って、スルスルと石畳の上を走っていく。
ジジジッ……と、石が焦げるような微かな音が響く。
やがて広場の中心に直径三メートルを超える巨大で禍々しい魔法陣が、真っ黒な影の線となってくっきりと描き出された。
「なんて複雑な……。影魔法と転移術式を、これほど緻密に編み込んでいるなんて」
クラリスさんが息を呑んで後ずさった。
その魔法陣は通常の円と幾何学模様の組み合わせではなく、歪で狂気じみた数式と古代文字で埋め尽くされていた。
「これなら……読めるかもしれない」
僕は弾かれたように魔法陣の縁に歩み寄り、石畳に刻まれた文字と数式の羅列に目を凝らした。
父上の地下書庫で読み漁った、難解な空間魔導理論の数々。
僕の脳髄が父上から受け継いだ異常な演算能力をフル回転させ、目の前の暗号を猛烈な速度で解読していく。
「北北東……距離はおよそ六百キロメートル。ベルツ領内の山岳地帯……」
僕は乾いた唇を舐め、指先で空中に軌跡を描きながら、座標の計算を続けた。
風の音も、クラリスさんたちの息遣いも遠ざかり、ただ無数の数式だけが頭の中を駆け巡る。
「座標の中心にあるのは……」
導き出されたベルツ王国の地図情報と照らし合わせ、僕はその絶望的な名前を口にした。
「――『鉄牙の要塞』です」
その名を聞いた瞬間、クラリスさんとイザベラさんの顔からスッと血の気が引いた。
「鉄牙の要塞……! あそこはベルツ王国が誇る難攻不落の軍事拠点。数千の兵と、最新鋭の魔導砲がひしめく絶対防衛線ですわよ!」
クラリスさんが声を震わせる。
サミュエルは、自国の最も堅牢な軍事要塞を逃走先に選んだのだ。
もしシルバードの軍隊が正面から攻め込んだとしても、要塞を落とすまでに何日もかかってしまう。
「いや、待ってください。まだ座標の記述が続いている……」
僕はさらに目を凝らし、魔法陣の中心に近い、最も複雑に絡み合った影の術式を睨みつけた。
おかしい。
鉄牙の要塞に着地するだけなら、ここで術式は完結しているはずだ。
だが、その先にも空間をさらに深く穿つような異常な座標式が組み込まれていた。
「……地下深く……? いや、違う。深さの指定が途中で途切れている」
読めば読むほど、背筋に悪寒が走る。
それは、現実の物理法則を無視した、狂った空間座標だった。
「物理的な座標が存在しない……。まるで、現実の空間から完全に切り離されているような……」
その言葉を口にした瞬間、僕の脳内で閃光が走った。
王宮の地下で母上の結婚指輪の欠片を見つけた時の記憶。
あの時、欠片を核にして追跡術式を組んだにも関わらず、座標は激しくぶれ、目的地はどうやっても特定できなかった。
探知が届かないのではない。
そもそも、『この世界』に座標が存在していないのだとしたら。
「……虚数空間への入り口か」
僕の呟きに大人二人が息を呑んだ。
「虚数空間ですって……? そんなもの、ただの机上の空論、魔導書の中だけのおとぎ話ではありませんの?」
「存在します。現実の空間座標から完全に切り離された次元の断層。サミュエルは鉄牙の要塞の地下深くを『鍵穴』にして、母上をそこへ隔離したんだ」
点と点が繋がり、一本の線になる。
だからシルバードの魔法省がどれだけ探知魔導具を回しても、母上の気配を拾えなかったのだ。
「お兄様……どうするの?」
「ぼくたちだけで、そんなお城に攻め込むのは無理だよ……」
サリエスとアルテミスが僕の服の袖を不安そうに握りしめた。
子どもと、退役した女性二人。
一国の絶対防衛線を突破し、さらに地下深くに隠された次元の壁をこじ開けることなど到底不可能だ。
「もちろん、この魔法陣を起動させるつもりはない。行き先が割れただけで十分だ」
これまで見えない暗闇を手探りで歩いていた状態から、ようやくはっきりと『敵の首根っこ』を掴んだ確かな手応えがあった。
犯人はサミュエル・クーパー。
場所は鉄牙の要塞の地下深くから繋がる、虚数空間。
これだけ明確な答えが揃えば、あとは『圧倒的な暴力』でそこをこじ開けるだけだ。
「王都へ、ヴァルテンベルク公爵邸へ戻りましょう。母上の居場所はほぼ割れました。……ここから先は、父上の力が必要です」
僕の言葉にクラリスさんとイザベラさんは顔を見合わせ、やがて深く覚悟を決めたように頷いた。
「ええ。証拠と座標が揃ったのなら、もうあの御方を止める鎖はありませんわね」
「急ぎましょう。奥様の命の刻限が迫っているかもしれない」
僕は頷き、馬車が停まっている方向へと振り返った。
「帰り道は僕が道中に打ち込んできた『帰還用アンカー』を繋いで戻ります。馬車で走るより遥かに早い。数時間程度で王都の公爵邸まで帰り着けるはずです」




