33_地獄の中での愛 シャルロットside
滴る水滴の音だけが、永遠のようにループして耳の奥で反響している。
カビと土、そして凍てつくような冷気に満ちた地下の石牢。
わたしは氷のように冷たい石床に身を丸め、ただガタガタと震え続けていました。
最後にレインハルト様の温もりに抱かれてから、もうどれだけの時が流れたのでしょうか。
極度の飢餓と寒さ。
わたしの身体を流れるリリスの血は、あとどのくらい耐えられるのでしょうか。
ひび割れた唇から漏れる吐息は白く霞み、かつての輝くような美しさはもうありません。
ギィィィッ……。
重厚な鉄の扉が、耳障りな金属音を立てて開かれました。
カツ、カツと響く規則正しい軍靴の音。
同時に、鼻を突くようなツンとした薬品の匂いと、生臭い血の匂いが冷たい空気に混じって流れ込んできます。
「……生きているか、化け物」
魔法灯の青白い光を背負って現れたのは、右目に眼帯をしたサミュエル・クーパーでした。
彼は無造作にわたしの前に歩み寄ると、手にしていた粗末なブリキのコップを、わたしの顔の近くに突き出しました。
「飲め。ただの水だ」
わたしは鎖の重みに耐えながら、震える手でコップを受け取りました。
氷のように冷たい水。
それでも、今のわたしにとっては命を繋ぐ唯一の生命線です。
ひび割れた唇にコップを当て、少しずつ流し込みます。
冷たい液体が干からびた喉を焼くように下っていく痛みに、思わず咳き込みました。
「ゲホッ……かはっ……」
「無様なものだ。やはりあの異常な美貌はヴァルテンベルク公の魔力を吸い上げて維持していたのだろうな」
サミュエルは地を這うわたしを見下ろしながら、さも汚らわしいものを見るような声で吐き捨てました。
「あの男も哀れなものだ。こんな化け物に取り付かれ、己の精気と魔力を搾り取られているとも知らずに、愛しているなどと錯覚しているのだからな」
「……取り付いてなど……っ」
「何が違う? あれほどの魔力をお前に与えていたということは、相応の負荷がかかっているはずだ。長い年月をかけて、じわじわとその命を削り取っていたのだろう」
「それは……、彼が、それを望んだから……!」
「ハハッ! 面白い冗談だ。どこの世界に悪魔に身と財産を売り渡して死を望む人間がいる?」
彼の言葉が、氷の刃のようにわたしの心臓を深く抉りました。
『化け物』
その言葉の刃が、再びわたしを深い泥沼へと引き摺り込みます。
わたしの存在そのものが、彼を蝕み、狂わせている毒なのだということも分かっている。
(それでも……それでも……)
「わたしは、レインハルト様のために生きて、そして、……そして、わたしの全てをあの方にあげたいのです。彼が望むならお子も産みます。死を望まれるなら、死んだってかまわない。最期の瞬間まで、わたしの身も心も彼のものなのですから」
「純愛だとでも?……気持ち悪いな。まあいい。お前のその異質な命も、あと数日の猶予だ」
サミュエルは懐から手帳を取り出し、忌々しげに舌打ちをしました。
「……今、魔導溶液に漬けているシルバードの捕虜魔導師が結晶化されきって、薬液槽が空くのを待っている状態だ。あと二日で交代になる」
二日後。
わたしは生きたまま薬液に漬けられ、結晶化される。
死の宣告を突きつけられても、わたしの心は不思議なほど麻痺していました。
(もともとレインハルト様の手で殺されるはずだった命――。なにも惜しくはありません)
ただ、……ただ、こんなところで散らされるなら彼の手で殺された方が遥かに良かった。
「その眼光。まだ助けがくるのを期待しているのか? 気に入らないな」
サミュエルの声色が、ひどく冷酷な研究者のそれに変わりました。
「……そういえば。傷を負えばどうなるのだ? 見てみたいな」
「!?」
――ジャキッ。
冷たい金属が擦れる音。
サミュエルの手の中に、鋭く尖った軍用ナイフが握られていました。
「普通の人間と同じように血を流すのか、それとも生存本能が暴走して新たな変化を見せるのか……。実際に目で見てデータを取らねば分からない」
「や、やめて……! 普通の人間と同じです! いつもレインハルト様に魔法で治療してもらっていたのです……!!」
わたしは恐怖に顔を引きつらせ、後ずさろうとしました。
しかし、手足に繋がれた鎖がジャラリと鳴るだけで逃げる場所などどこにもありません。
「そうか? だが、女は嘘つきだからな」
サミュエルがわたしの上に覆い被さるようにして、ナイフを振り上げました。
その切っ先が狙うのは引き裂かれたドレスの隙間から覗く、わたしの痩せ細った太もも。
刃が放つ冷たい銀色の光がスローモーションのようにわたしの網膜に焼き付きます。
(いや……っ!!)
血を流せば、ただでさえ限界の体力が奪われ、お腹の赤ちゃんまで死んでしまうかもしれない。
「いやあぁぁぁぁ―――!! やめて!!」
わたしは目を堅く閉じ、喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げました。
――カッ!!
その瞬間でした。
極寒の暗闇に包まれていた岩牢が、目も眩むような黄金色の閃光に包まれました。
「ぐわあぁっ!?」
ドズンッ……ッ!!
凄まじい衝撃音と共にサミュエルの悲鳴が響き渡ります。
恐る恐る目を開けると、ナイフを振り下ろそうとしていたサミュエルの身体が、見えない巨大な壁に弾き飛ばされたかのように数メートル後方の石壁に激突して転がっていました。
「な、なんだ……!? この光は……ッ!?」
サミュエルが呻き声を上げながら顔を上げます。
その視線の先。
わたしの胸元――引き裂かれたドレスのレースの奥深くで、極小の何かが太陽のように強烈な黄金の光を放っていました。
(これは……まさか指輪の……)
あの夜、サミュエルに破壊されたはずのイエローダイヤモンドの結婚指輪。
そのほんのミリ単位の微細な破片が、私のドレスのレースに引っかかったまま残っていたのです。
指輪の欠片から溢れ出した黄金の光は、まるで意思を持っているかのようにわたしの身体を優しく包み込みました。
氷のように冷たかった肌に、じんわりと温かい熱が広がっていきます。
そして、光と共に溢れ出してきたのは――陽だまりの香り。
『シャル』
耳元で、あのひどく甘く、けれどどこまでも力強い声が聞こえた気がしました。
わたしの絶叫に、わたしの危機に反応して、内包されていた強大な庇護の魔力が次元の壁を越えてこの小さな欠片を通じて顕現したのです。
(レインハルト様……っ)
わたしは黄金の光に包まれながら、ボロボロと大粒の涙を零しました。
化け物だと罵られ、飢餓と寒さに苛まれ。
死の恐怖に震えていたわたしの心を、彼方からの愛が圧倒的な熱量で溶かしていく。
わたしは魔物。
彼を狂わせている毒の花。
それでも、彼はこんなにも強くわたしを守ろうとしてくれている。
「……クソッ! レインハルトの魔導か! そんな欠片になってまで妻を守ろうとするのか……怪物め!!」
サミュエルは怒りに顔を引きつらせ、悪態をつきながら岩牢から出ていきました。
バタン、と扉が閉まり、再び静寂が戻ります。
けれど、もう寒くはありませんでした。
わたしは黄金の光に包まれたまま、胸元のレースに引っかかっている小さな破片を、震える両手でそっと包み込みました。
「レインハルト様……待っています。……ずっと、待っていますから……っ」
温かな光と匂いに抱かれながら、わたしは目を閉じました。
地獄の底のようなこの場所で、彼の圧倒的な愛だけが、わたしを生かす唯一の希望の光だったのです。




