31_壊れていく理性 レインハルトside
光を完全に遮断した主寝室は、まるで棺桶のように静かで、底冷えがした。
僕はキングサイズのベッドの中央に横になり、両腕に抱え込んだ薄絹の塊に顔を埋めた。
シャルロットがあの夜に着るはずだった淡い真珠色のネグリジェ。
滑らかなシルクの感触に頬を擦り付けると、布地の奥から微かにベルガモットと甘い花の香りがした。
陽だまりのような、最愛の妻の香り。
だが、その香りも主が不在のまま十日以上が過ぎ、残酷なほどに薄れつつある。
布に染み付いた匂いが完全に消えてしまった時、僕とシャルを繋ぐこの世界での確かなものが、すべて失われてしまうような気がして恐ろしかった。
「シャル……っ」
深く息を吸い込むたびに、肺がひしゃげるような痛みが走る。
心だけでなく、肉体そのものが悲鳴を上げていた。
僕とシャルロットは互いの命と魂の根幹を深く依存し合っている。
淫魔の血を引く彼女は僕の規格外の魔力、そして精気を喰らうことで、その美しさと特異な細胞を維持している。
そして僕もまた、彼女の放つ甘い香りと、肉体的な繋がりを錨にすることで自我を保っていた。
「愛している」
(――しかしそれと同じくらいに。シャルの身体に、……この世のものとは思えない快楽に溺れた)
(これは、呪い。……呪縛だ――)
もはや自分の意思でどうこうできる段階などではとうになく。
シャルの魔界の毒は完全に僕の全身に回っている。
「この身が朽ちるまで、全てを彼女に捧げて、そして死にたい――……」
そんな狂気じみた考えがずっと渦巻いているのだ。
いや、……それが至上の幸せで、喜びに他ならない。
神の前の殉教者のような、陶酔にも似た、呪いのような愛――。
(持てるすべての方法は使った。王家の宝物庫から強力な探知魔導具も引っ張り出し、禁忌と言われる術式さえ試した……)
それでも。
どれだけ魔力を振り絞っても、シャルの気配はおろか、その方向すら微塵も掴めなかったのだ。
僕の魔力はどこまでも続く底なしの虚無に吸い込まれるように消えていくばかり。
世界のどこにも、彼女が存在していないかのように。
「僕は……なんて無力なんだ」
シーツにギリリと爪が食い込む。
大陸最強などと持て囃されていながら、たった一人の愛する女の居場所さえ見つけられない。
絶望と無力感がどろどろとしたタールのように全身を満たし、僕を再び暗い底へと引き摺り込もうとしていた。
その時だった。
――バンッ!!
静寂を切り裂くような乱暴な音と共に、主寝室の重い扉が蹴り開けられた。
廊下からの眩い光が室内に差し込み、僕は目を細めて顔をしかめた。
「いつまで湿気た部屋でうずくまってやがる、この陰気野郎!」
ずかずかと遠慮のない足音を立てて踏み込んできたのは、赤髪の巨漢――グリオールだった。
彼の手には執事のセバスチャンから無理やり押し付けられたであろう、ローストビーフのサンドイッチと温かいスープが乗ったランチプレートが握られている。
「……何の用だ、グリオール。出て行け」
僕は掠れた声で冷たく言い放った。
「用じゃねぇよ! 今が何時か分かってるのか? 朝食も食べねぇで、絶食する気かお前は!」
「は?」
「は? じゃねぇよ。食え」
ガチャン、と無作法な音を立てて、サイドテーブルにランチプレートが置かれる。
香ばしい肉の脂と、コンソメスープの匂い。
だが、今の僕の胃袋はそれを完全に拒絶していた。
「……食欲はない」
「一口でもいいから胃に入れろ。その青白いツラ、鏡で見てみろ。死神の方がまだ血色がいいぜ」
「まったく……。昨日夕食は食べたというのに。大げさだな」
僕はベッドから起き上がり、グリオールを睨みつけた。
しかし、僕の威圧を受けても、この豪快な男は全く怯む様子を見せなかった。
「僕の魔導でも、シャルの気配が一切探れないんだ。この世界から完全に隔離されているとしか思えない……。調べ物をしていて気付いたのだが、虚数空間の術式がかけられた空間に攫われたのかもしれない」
「……なるほど。そうだとすればかなり面倒だな。正確な位置を把握して更にその術式をブチ破る技術が要る」
「犯人が使ったであろう、国境の結界をすり抜ける古代魔術の影の転移魔導の方法はなんとなく把握したよ。そして構築理論的には僕にも使えそうだ。……あとは、シャルの……」
自嘲するようにはき出した僕の言葉に、グリオールは大きくため息を吐いた。
そして、苛立たしげに頭をガシガシと掻き毟ると、僕の胸ぐらを太い腕で乱暴に掴み上げた。
「ッ……! 何をする」
「いい加減にしろよ、レインハルト」
至近距離で睨み合ってくるグリオールの目は、学生時代にも見たことが無かった。
真剣な熱を帯びた眼光と、筋肉の震え。
「自分一人で全部解決しようとすんじゃねぇよ。悲劇の主人公ぶって、自分だけが世界で一番絶望してるようなツラしやがって」
「……お前に、僕とシャルの繋がりが理解できるはずがない」
「ああ、理解できねぇよ。お前ら夫婦の異常な依存関係なんて、気持ち悪くて理解したくもねぇ。だがな!」
グリオールは僕の胸ぐらを強く揺さぶった。
「最強だなんだって持て囃されてようが、個人でやれることなんか限られてんだよ! お前は神様じゃねぇ、ただの一人の人間だろうが!! 傲慢野郎が!」
傲慢野郎。
その言葉が、凍りついていた僕の脳髄に鋭く突き刺さった。
「探知が届かねぇなら、別の方法で探す奴を頼れ。自分の力が通用しねぇなら周りに頭を下げて力を借りろ。……部屋に籠って女の服を抱きしめて泣いてるだけの最強の公爵様より、お前の息子らの方がよっぽど頼もしいぜ」
グリオールが軽蔑するように吐き捨てた言葉に、僕はハッと息を呑んだ。
「……息子の、リオンの行方が分かったのか」
僕は彼の腕を払い除け、怪訝に眉をひそめた。
「リオンたちが何かしたのか?」
「リオン殿、そしてサリエス、アルテミス殿はクラリス夫人たちを追ってベルツ国境まで行ったらしいな」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「ベルツ……国境だと?」
「ああ。ちょっと顔見知りになったリオネル親衛隊長に今朝聞きに行った。だがお前はまだ動くな。リオン殿が持ち帰る情報を待て。」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
十四歳のリオンと、十二歳の双子のサリエスとアルテミス。
あの子たちが僕の元部下と合流し、四年前まで戦争をしていた敵国の国境まで直接赴いているというのか。
一歩間違えれば命の危険すらある。
自分がどれほど情けなく、愚かな父親であったかを文字通り顔面に叩きつけられた気分だった。
愛する妻を奪われ、僕は自らの力で解決できない現実に絶望し、塞ぎ込んでいた。
「……っ」
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
僕は何をしているのだ。
シャルが命を懸けて産み落とし、僕に託してくれた宝物たちを危険な場所へ行かせておきながら、自分は安全な寝室で彼女の残り香に縋っていたとは。
「……どうやら、少しは目が覚めたようだな」
立ち尽くす僕の顔色を見て、グリオールが鼻で笑った。
彼はサイドテーブルのランチプレートを指差す。
「いいか、最強。子どもたちが命懸けで持ち帰ってくる答えを、お前が受け止められなきゃどうすんだ。身体に栄養を入れろ。戦うための準備をしておけ。……あいつらが帰ってきた時、お前がそんなミイラみたいなツラしてたら、笑い者だぞ」
グリオールの言う通りだった。
僕は、傲慢だった。
自らの力を過信し、それが通じないからと絶望した。
だが、僕にはシャルがくれた子どもたちがいる。
優秀な部下たちがいる。
そして、目の前で毒づきながらも心配してくれる悪友がいる。
「……わかった」
僕は深く息を吸い込み、冷え切っていた肺に新しい空気を満たした。
ランチプレートへ手を伸ばし、冷めかけたスープの器を持ち上げる。
喉を通る液体は砂のようにざらついて味がしなかったが、僕はそれを無理やり胃袋へと流し込んだ。
子どもたちが、ベルツ国境へ向かった。
そこに何があるのか。
もし、ベルツが一枚嚙んでいるとしたら……。
絶対に許さない。
全てを。
灰にしてやる。
僕の中の燻っていた黄金の魔力が、確かな熱を持って再び脈動を始めるのを感じていた。




