30_幼き追撃者たち リオンside
空間を跳躍する転移門という魔法は本来、出発点と到着点の双方に安定した魔法陣を敷かなければ開くことはできない。
目印のない虚空に向かって穴を開ける行為は、灯台のない暗黒の海へ小舟で漕ぎ出すようなものであり、わずかな座標のズレが術者の肉体を亜空間の塵へと変えてしまうからだ。
だが、僕たちに悠長に準備をしている時間はなかった。
魔法省から借りた、一つの魔導結晶。
そこには、かつて父上の部下であった水魔法の使い手、クラリス・レジャーノン夫人の魔力波形が記録されていた。
僕はそれを媒介として用いることで、物理的な魔法陣の代わりに彼女の魔力そのものを到着点の目印として強引に空間をこじ開けたのだ。
「ぐっ……!」
「お兄様、空間の歪みが……!」
「抑えろ、サリエス! アルテミス、魔力供給を絶つな!」
漆黒の亜空間トンネルの中で全身の骨が軋み、臓腑が引き千切られるような激痛が走る。
僕の演算能力と双子たちの膨大な魔力支援。
それを総動員して無理やり繋ぎ止めた空間の道。
視界の先、微かに光るクラリスさんの水属性の波長だけを頼りに、僕たちは暗闇の中を全力で駆け抜けた。
バチィィッ!!
耳を劈くような破裂音とともに空間が弾け、僕たちは冷たい地面へと文字通り吐き出された。
「かはっ……、げほっ、ごほっ!」
「サリエス、大丈夫か!?」
「う、うん……。アルテミスも、平気みたい……」
「やはり、僕たちの力では数十秒しか持たないな」
肺に冷たい空気が流れ込み、激しくむせ返る。
乱れた呼吸を整えながら周囲を見渡すと、そこは王都とは全く違う、冷たく乾燥した風が吹き荒れる広大な荒野だった。
遠くに街の灯りが見える。
おそらく、目的のドワテオ領シムカ市の郊外だろう。
クラリスさんの魔力波長を無理やり辿ったため、市街地ではなくかなり郊外に着地してしまったようだ。
「急ごう。クラリスさんたちは馬車で移動している。今ごろは今夜泊まる宿を探しているはずだ」
僕は立ち上がり、泥を払って双子を振り返った。
転移の疲労で息は上がっているが、休んでいる暇はない。
母上が今も人知れずどこかで苦しんでいるかもしれないのだ。
一秒たりとも無駄にはできない。
僕は足元に魔力を練り上げ、遮蔽物の無い空間の距離を強制的に折り畳む歩法――【縮地】の術式を展開した。
「遅れるなよ。シムカ市はもう見えている」
「わかってる!」
「縮地程度なら問題ないわ」
僕たち三人は、薄暗い荒野を文字通り飛ぶような速度で駆け抜けた。
一歩踏み出すごとに数十メートルの景色が後方へ吹き飛び、冷たい夜風が頬を刃のように切り裂く。
やがて、街道沿いを北へ向かって進む、堅牢な造りの馬車の影が視界に捉えられた。
キャビンに魔法省の刻印。
「いた……! あの馬車だ!」
僕はさらに魔力を高め、一気に馬車の前へと回り込んだ。
「止まれッ!」
突然街道に躍り出た僕たちの姿に御者が悲鳴を上げて手綱を引き絞る。
いななきと共に馬車が急停車し、護衛の騎士たちが一斉に剣に手をかけた。
一触即発の空気が流れる中、馬車の扉が勢いよく開き、中からクラリスさんと黒いローブを着たイザベラさんが飛び出してきた。
「何事です――ッ!?」
警戒も露わに声を張り上げたクラリスさんは、夕日に照らされた僕たちの顔を見て、絶句した。
「リ、リオン様……!? サリエス様に、アルテミス様まで!?」
彼女の目は、信じられないものを見るように見開かれている。
「どうやってここまで……!? 王都からは馬車で丸二日はかかる距離ですわよ!?」
僕は小さく息を吐き、衣服の乱れを直してから深く頭を下げた。
「魔法省からクラリスさんの波形水晶版をお借りし、媒介にして無理やり転移門を開きました。……勝手にすみません」
「波形水晶を媒介に……? 魔法陣のない空間跳躍など自殺行為ですわ! 一歩間違えれば身体が亜空間に引き裂かれていたのですよ!?」
元魔法省勤務の彼女だからこそ、僕のやったことの異常性と危険性が瞬時に理解できたのだろう。
クラリスさんの顔面からスッと血の気が引いていくのがわかった。
「無事だったから良かったものの……。あなたたちに万が一のことがあれば、レインハルト様になんとお詫びすれば……」
「僕たちも同行させてもらえませんか」
僕は彼女の言葉を遮り、真っ直ぐにその目を見据えた。
「同行、ですって……?」
「はい。国境まではこのまま馬車移動になりますが、道中、一定の距離ごとに僕が帰還用の魔法陣を敷いていきます。そうすれば帰り道は馬車で四日もかけず、数時間程度で王都へ戻れるはずです」
僕の提案にクラリスさんは息を呑んだ。
もし波形照合が合致し、証拠を得たとしても、帰還するのに四日もかかっては母上の身体が心配だ。
帰りの時間を劇的に短縮できるという提案は、彼女にとっても喉から手が出るほど欲しい条件のはずだ。
「え、ええ……。それは、願ってもいないことですけれど……」
クラリスさんは迷うように視線を泳がせ、やがて鋭い声で問いただした。
「お父様……レインハルト様は、あなたたちがここへ来たことをご存じなのですか?」
僕は一瞬だけ沈黙し、事実を口にした。
「……いえ。僕の独断になります」
「まあ……! それはしかし……」
クラリスさんが頭を抱える。
隣で控えていたイザベラさんも、困惑したように沈黙を守っている。
かつて父上の部下だった彼女たちにとって、公爵の許可なくその子供たちを危険な国境まで連れ出すなど、本来なら絶対に避けたい事態だろう。
ましてや今の父上は正気を失いかけているのだ。
もし僕たちまでも何かあれば、あの男の魔力は間違いなく暴走し、世界を巻き込んで破滅する。
けれど、僕たち三人の意思は揺るがない。
「僕たちの力では、転移門を開いていられるのは三十秒程度しか持ちません。ですが、クラリスさんたちを含めたこの人数でしたら十分に渡り切れる。大丈夫だと思います」
僕はさらに念を押すように告げた。
金色の瞳に魔力を滲ませ、絶対に引かないという意志を示す。
双子のサリエスとアルテミスも僕の両脇で力強く頷き、クラリスさんを真っ直ぐに見つめ返した。
しばらくの沈黙の後。
クラリスさんは深く、深くため息を吐き出した。
「……わかりましたわ。その代わり、決してわたくしたちの側を離れないこと。約束できますね?」
「はい。ありがとうございます、クラリスさん」
僕が頭を下げると、彼女は疲れたように微笑んだ。
「さあ、馬車へお乗りください。公子様方。風が冷えてきましたわ」




