19_賢者の決壊、そして宿題
「た、体液……ですか?」
「唾液で構わない。さあ」
彼は震える手で、透明な試験管を差し出してきました。
わたしは戸惑いながらも協力しようとしましたが、緊張のせいで数滴しか取れません。
「……足りないな。最低でも十ミリリットルは必要だ」
「十ミリ!? そんな、すぐに出せる量ではありませんわ!」
「……興奮すれば、出るのではないだろうか?」
「――ええっ?……で、では……」
わたしは一瞬ためらいましたが、同時に胸の奥で、仄暗い熱が甘く囁くのを感じました。
自分の香りが彼に及ぼす影響を知りながら、それでも「彼の研究の役に立ちたい」という名目を盾にして、もっと彼に触れたいと願ってしまったのです。
わたしはわざと距離を詰め、彼を見上げました。
「レインハルト様。わたしを抱きしめてくださいまし。……そうすれば、きっと……」
半ば意図的なわたしの誘惑に、彼は「くっ……」と呻きながらも抗えず、椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、わたしを背後から抱きしめました。
「これで……いいだろうか……?」
「はい……もっと……強く……」
耳元に、彼の熱い吐息がかかります。
吸い付くような、甘く切ない口付けが耳たぶに落とされた瞬間、わたしの肌から溢れる「誘惑の香り」が爆発的に膨れ上がりました。
「あ、あぁ……っ」
「シャル……なんて、匂いを……っ。……っはぁ……はぁ……」
彼はわたしの肩に顔を埋め、理性を繋ぎ止めようと必死に呼吸を繰り返します。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ、引き続き……唾液のサンプルを採取して……はぁ、……」
「は、はい……!……」
わたしは試験管を握りしめ、唾液を落としていきます。
しかし高身長な彼に羽交い絞めにされ、その上ガタガタと震えられると、狙いが逸れそうになります。
ここまでは、よかったのです。
けれどわたしは、さらに一歩踏み込んでしまいました。
「レインハルトさま、もう少し……えっと、そうですわ、落ち着きましょう。ほら……」
背後の彼に向かって上体を捻り、目元から頬下までそっと撫でた、その瞬間。
すう、と彼の瞳から光が消え、魔力の圧が室内を歪めました。
彼が荒々しくわたしの顎を捕らえ、その唇が今にもわたしのそれを塞ごうと迫ってきます。
(あ、キス、され――)
わたしが目を閉じかけた、その時。
「…………っ!! だめだ……ッ!」
弾かれたようにわたしを引きはがしたのは、レインハルト様の方でした。
彼は真っ赤な顔で絶望に顔を歪めると、机の上に置いてあった分厚い魔導書――『高等魔導理論・実践編』をひっつかみ、ご自身の頭を思い切り殴りつけたのです。
――ゴンッ!!
凄まじく鈍い音が、静かな研究室に響き渡りました。
当たり所が悪かったのか、彼の額が僅かに切れ、つうっ…と鮮血が流れ落ちます。
その赤い色を見た瞬間、室内の空気が完全に凍りつきました。
「レ、レインハルト様あぁ!? ご自分の頭を魔導書で殴るなんて! 血! 血っ……血がぁっ……!!」
わたしは息を呑み、言葉を失いました。
彼は本当に、狂いそうな自分を物理的な痛みで強制終了させたのです。
わたしの浅はかな誘惑が彼をここまで追い詰めている。
彼を狂わせ傷つけているのは、ほかならぬわたしの存在なのだと、その血が容赦なく突きつけてきました。
「……はあっ、はあっ…はぁっ…。こうでもしないと、君を今すぐこの机の上で押し倒して、研究どころではない事態にしてしまいそうなんだ……っ!」
肩で激しく息をする彼の黄金の瞳は、いまだに昏い熱を孕んだまま、ギリギリのところで自制を保っていました。
わたしは恐怖と罪悪感で、足がすくんで動けませんでした。
彼はご自身の血を手の甲で無造作に拭うと、わたしが落としてしまった試験管を見て、深いため息をつきました。
「……検体がこぼれてしまったな。……これを持って帰ってくれ、シャルロット」
彼は、洗浄済みの新しい試験管をわたしの手に握らせました。
「自宅で……一人で、リラックスしている時に、これを満たしてきてほしい。明日、必ず僕に提出するように。いいね?」
「あ……はい。努力いたしますわ」
「……あぁ、もう。今日は早く帰るんだ。これ以上君がここにいたら、僕は魔導書で自分の頭を叩き割る羽目になる」
彼は顔を覆いながら、背を向けました。
わたしは空の試験管を胸に抱き、逃げるように研究室を後にしました。
……明日、彼に「検体」を渡す時。
わたしはまた彼を傷つけ、困らせてしまうのでしょうか。
自分の持つ毒の恐ろしさと、それに相反する抗いがたい期待を胸に抱きながら、わたしは茜色の廊下を一人、重い足取りで歩き出すのでした。




