18_愛の検体
茜色の夕闇が、学園の回廊を濃密な朱に染め上げていく。
放課後の静寂を縫って、わたしは最上階に近い「魔法化学研究室」の扉を叩きました。
そこは現在、王国最強の魔導師であり、わたしの婚約者であるレインハルト様の、ほぼ「私室」と化している場所です。
重厚な扉を開けると、そこには数多の魔導書と、怪しげに光るフラスコ、そして眉間に深い皺を寄せて難しい顔をした、世界で一番ハンサムな「研究者」が座っていました。
「……来たか、シャルロット。待っていたよ」
「失礼いたしますわ、レインハルト様。それで、お話というのは……?」
わたしたちは、誰にも邪魔されない研究室の中央で、膝を突き合わせて座りました。
今日の彼の瞳は、獲物を分析する学者のように鋭く、けれどどこか焦燥の色を帯びている。
机上には、真っさらな羊皮紙と几帳面な文字で書かれたレポート、そしてガラスペンがキラリと光っていました。
「シャルロット。……僕は、君を研究する必要があると感じている」
「研究……ですか? わたしを? 魔法の実験台にでもなるのかしら」
「違う。もっと根源的で、かつ学術的な話だ。……君の身体が放つあの『蜜の香り』、そして僕の理性が容易く吹き飛んでしまうメカニズムを解明しなければ、僕たちの未来はない」
レインハルト様は、まるで国家の存亡に関わる重大な講義をするかのような、極めて真面目な口調で語り始めました。
「現在の僕の分析によれば、判明している事実は以下の通りだ。
1.フェロモンの発動トリガーは、君の『欲情』および『欲求不満』がほとんどであること。残りの少ない確率は不確定要素だ。
2.その『欲求』が、僕による……その、直接的な肉体的介入によって解消された途端、芳香は完全に消失する。
3.魔力の強い男ほど、その芳香にあてられ、理性を喪失するリスクが高い。つまり、僕が最も危険だということだ。
4.香りは夜に強まる傾向にあるが、昼間であっても君が『強い欲情』を抱けば、瞬時に発現する」
「……はい」
わたしは頷きましたが、胸の奥がざわついて仕方がありませんでした。
彼の語り口はどこまでも誠実で「学術的」なのに、私を見る黄金の瞳が、時折逃げるように揺れている。
そのギャップが、わたしの心拍数を無意識に跳ね上げさせていくのです。
「……そして」
レインハルト様はそこで言葉を切り、唇を噛みました。
珍しく迷いの滲む表情で、視線を落とします。
「先日の……劇場の件について、謝らなければならない」
「え……?」
「……君の匂いを嗅いだ途端、理性が飛び……」
彼は耳の先を林檎のように赤くしながら、絞り出すように続けました。
「……あんな人前で、君に口づけてしまった。あまつさえ、劇場のテントまで吹き飛ばすという醜態を……」
本当に大変だったのは、彼が放った風魔法で劇場を木っ端微塵に破壊してしまったことなのですが、彼にとっては「愛する女性への自制心を失ったこと」の方が、魔導師としてのプライドを粉砕する大事件だったようです。
「……劇場での一件は、僕の落ち度だ。4つ目の条件――君の昼間の欲情がトリガーになることを、僕は完全には把握していなかった。あの時、君は舞台の男女を見て……その……」
「あ、あ、ちがっ! いえ、違いませんけれども! あの、その、はい。……役者さんたちを見て、あなたとの夜を思い出してしまって……」
なんという羞恥なのでしょう。
わたしは顔を真っ赤にして説明しようとしましたが、もはや自分がなにを言っているのかさえ分からなくなってきました。
レインハルト様は少し頬を染め、視線を逸らして続けます。
「……僕は君の匂いには抗うのが非常に難しい。あの香りを嗅ぐたび、欲情し、抗おうとすると心臓を引き裂かれるような、理性をズタズタにされるような苦しみに襲われるんだ。……そして、何よりも忌まわしいのは……数十人もの男たちの前で、君の『匂い』を嗅がせてしまったことだ……」
彼は苦しげに顔を歪めました。
最強の魔導師が、一人の女性への独占欲と、失態への後悔で悶えている。
その姿は、不謹慎ながらとても艶っぽく見えました。
「レインハルト様、気にしないでください。あなたにキスされてわたし、とても嬉しかったですし……今思い出しても、その、少し興奮してしまって……」
言いかけて、しまった、と思いました。
瞬時に、研究室の空気が「しっとり」と重苦しく変質したからです。
「……っ、またか。待ってくれ、今日は対策を用意した」
レインハルト様は焦ったように立ち上がり、机の上に用意していた魔力測定用の水晶に手をかざしました。
幾重にも中和魔法の陣が展開され、空気を清浄化しようと淡く光ります。
けれど。
パキィィッ!
誘惑の甘い香りが満ちた瞬間、魔法陣はあっけなく弾け飛び、水晶には無残な亀裂が走りました。
物理的な魔力障壁も、最高位の中和魔法も、わたしの放つ香りの前では全く意味を成さなかったのです。
「くそ……っ。魔法的な対抗策すら通じないのか……っ!」
レインハルト様は机に両手をつき、荒い呼吸を繰り返しました。
理性の崩壊をすんでのところで耐えようと、額には冷たい汗が滲んでいます。
苦しむ彼を見て、胸が痛みました。
けれど同時に、わたしの奥底にある得体の知れない渇きが「もっと彼に触れたい」と甘く囁くのです。
(わたしが彼を狂わせている。……なら)
わたしはゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで彼に近づきました。
そして、白く震える彼の手の上に、自分の手をそっと重ねたのです。
「……シャルロット、離れ……っ」
「いいえ。わたしのせいですから」
わたしはわざと距離を詰め、彼の胸元にすり寄るように見上げました。
「あなたの研究の役に立つなら……わたし、なんでもいたしますわ。わたしの身体で、いくらでも試してくださいな」
自ら踏み込んだその一言と甘い匂いが、彼の最後の理性の糸をプツリと断ち切りました。
レインハルト様の黄金の瞳が、飢えた獣のように光を帯びていきます。
「はぁ、はぁ、はぁ……致し方ない、シャルロット。今すぐ君の体液の検体が欲しい。学術的に成分を分析して、対抗策を練る」




