26_深淵の愛 グリオールside
シルバード王国の王都は、表面上は親善試合の余韻を残して平穏を取り繕っていた。
が、その裏側ではピリピリとした不穏な空気が張り詰めていた。
特に王城の内部は最悪だ。
各国の使節団に対する犯人捜しの波形照合も全員不一致。
すでに帰国してしまった者たちを追う捜査班も各地に飛んでいるらしい。
中でも、四年前までこの国と戦争状態にあった現在俺が住む国――ベルツ王国に対する魔法省や親衛隊の視線は、日を追うごとに険しさを増していた。
親善試合に参加したベルツの魔導師の中で、今もこの王城に残っているのは俺だけだ。
残り数名の他国の特使は、シルバードの魔導を学ぶために滞在しているに過ぎない。
廊下ですれ違うたびに向けられる、あの刺すような疑惑の目。
俺自身が公爵夫人誘拐の犯人だと疑われているわけではないだろうが、「ベルツの人間」というだけで、なんとなく王城には居づらくなってきていた。
(……サミュエル。まさか、本当にお前が噛んでるんじゃねぇだろうな)
数日前、クラリス夫人にサミュエルの素性を話した時のことを思い出し、俺は頭をガシガシと掻き毟った。
(サミュエルがやったのだとしたら、公爵夫人誘拐の際に転移門を開く必要がある。国際法違反を破り、更に誘拐という大罪を重ねるメリットがどこにあるのか?)
「はあ……わかんね」
これ以上、息の詰まる王城にいても気が滅入るだけだ。
俺は気分転換も兼ねて、王都の城下街へと足を向けた。
適当な花屋に立ち寄り、目に鮮やかなオレンジ色や黄色の花を見繕って花束を作ってもらう。
手土産の準備を済ませ、俺はそのままヴァルテンベルク公爵邸へと向かった。
***
公爵邸の門をくぐると、そこには不気味なほどの静寂が広がっていた。
まるで、邸全体が分厚い氷の底に沈んでしまったかのように静まり返っている。
出迎えてくれた老執事の顔には、相変わらず深い疲労と心痛が刻まれていた。
応接室に案内され、出された上質な紅茶の香りを嗅ぎながら待っていると、静かに扉が開いた。
「……やあ、グリオール。わざわざどうしたんだい」
姿を現したのは、公爵の礼服を完璧に着こなしたレインハルトだった。
以前来た時のように臥せっているわけではないようだが。
しかし、その顔色は死人のように青白く、金色の瞳には何の光も宿っていなかった。
精巧に作られた、魂の入っていない蝋人形。
今のこいつを一言で表すなら、それが一番しっくりくる。
「おう。おまえんとこの息子に協力すると言った手前もあるしもう少し滞在しようかとは思うんだが……。王城の空気的に居辛くなってきてな。散歩がてらさ」
俺は努めて明るい声を出し、買ってきた花束をテーブルに置いた。
レインハルトはそれへ視線を向けることもなく、対面のソファーに力なく腰を下ろした。
「そういえば、今日はやけに静かじゃねぇか」
俺が尋ねると、レインハルトは紅茶のカップを見つめたまま、ひどく平坦な声で答えた。
「ああ……。リオンと、サリエス、アルテミスの三人なら、昨日から帰ってきていないよ」
「はあ!?」
俺は思わず大声を上げた。
「帰ってきてないって……まだ子どもだったろ!? こんな非常事態に親のお前が心配じゃねぇのかよ!」
母親が攫われて行方不明だっていうのに、今度は子どもまで帰ってこない。
普通の親なら発狂して探し回る状況だ。
だが、レインハルトはピクリとも眉を動かさなかった。
「彼らなりに、シャルの手がかりを追っているのだろう。……僕は僕で王宮と情報共有はしているのだが……」
「……お前なぁ」
俺は呆れて大きなため息を吐いた。
出された公爵邸の高級な焼き菓子を無造作に掴み、豪快に口に放り込む。
サクサクとした上品な甘さが口に広がるが、今のこの重苦しい空気の中では砂を噛んでいるような気分だった。
「お前、もう少ししっかりしろよ」
「……」
レインハルトは答えず、ただ虚空を見つめている。
学生時代のこいつは、もっと明るくて自信に満ち溢れていて。
どんな絶望的な状況でも冷徹に活路を見出す天才だった。
四年前の戦争でベルツの軍を壊滅させた時も、その底知れない理力に俺は恐怖すら覚えたものだ。
それがどうだ。
たった一人の女がいなくなっただけで、ここまで無様に崩れ落ちちまうとは。
俺が紅茶を飲み干し、どう言葉をかけたものかと迷っていると。
不意にレインハルトが独り言のようにぽつりとこぼした。
「グリオール。……僕は、シャルロットがいないと駄目なんだ」
掠れた、ひどく虚ろな声だった。
俺は無言で先を促す。
「お互いが、どちらかが欠けると生きていけない。生きていけないんだ……」
祈るように組まれた両手が、微かに震えている。
「おいおい、まだ結論を出すのは早いだろ」
俺は少しだけ声を張り上げた。
「クラリスさん? も、シルバード全土の兵も動いてるし、お前の優秀な息子だって頑張ってるじゃねぇか。まだ生きてるに決まってる。それに、お前には子どももいっぱいいるんだろう。あいつらに構ってやれよ。お前がそんなんじゃ、残された子どもたちが可哀想だぜ」
常識的な慰めと叱咤。
だが、俺のその言葉を聞いた瞬間、レインハルトの金色の瞳がゆっくりとこちらへ向けられた。
「……分かってはいるさ。ただ……」
「あん?」
「子どもなんて……彼女の光り輝くような存在に比べれば、ただの美しい装飾品のようなものなんだ」
ドクン、と。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
冗談でも自虐でもない。
レインハルトの濁った瞳の奥には、血の繋がった我が子に対する執着が本当に一欠片も存在していなかったのだ。
「シャルが僕との愛を産んでくれたから、シャルが愛しているから、僕も価値を見出しているに過ぎない。僕の世界には……彼女以外、何もいらないんだ」
空気が、急激に冷たくなった気がした。
俺は背筋を這い上がる悪寒を自覚しながら、目の前の男を見据えた。
深い闇。
ただの悲しみや喪失感ではない。
これはもっと粘着質で、底なしの泥沼のような感情だ。
「レインハルトよぁ……」
俺は引きつった笑いを浮かべ、無意識にソファーの背もたれに身体を引いていた。
「こえぇよ。……ちょっと異常なほど、嫁さんのこと愛してるんだな」
俺の率直な感想に、レインハルトは自嘲するように薄く唇を歪めた。
そして、応接室の冷たい空気を震わせるような、静かで狂気じみた声を響かせた。
「愛……? 愛なんて生易しい感情であれば、どれほど良かったか……」
その瞬間、俺は初めてレインハルト・イル・ヴァルテンベルクという男の『昏い狂気』の底に触れた気がした。
(こいつは、嫁さんを愛しているんじゃない)
シャルロット夫人という存在そのものを、自分自身の心臓の代わりにしているのだ。
心臓を引っこ抜かれた人間が正気を保てるわけがない。
今のこいつは、ただの『抜け殻』だ。
もしこのまま嫁さんが見つからなかったら、あるいは最悪の結末を迎えたら、この抜け殻は強大な魔力を暴走させ、世界ごと心中を図りかねない。
(さっきから気になってはいたが、ベルツに疑いの目が向けられていることは聞かされていないのかもしれねぇな)
……この様子だとなにか一つでも手がかりがあれば、確信もないまま国一つ滅ぼしそうだ。
おそらくはリオン殿あたりが情報経路の執事、もしくは捜査本部の上層部に口止めを依頼している可能性がある。
「……」
俺は言葉を失い、ただ沈黙するしかなかった。
どんな言葉をかけても、今のこいつの耳には届かないだろう。
重苦しい沈黙がしばらく続いた後、レインハルトはふうっと息を吐き出し、元の感情の抜け落ちた顔に戻った。
「グリオール」
「……あ、ああ?」
「王城が居心地が悪いのなら、しばらくうちに泊まってもいいよ」
突然の提案に、俺は目を丸くした。
「は? いいのかよ。お前、今それどころじゃねぇだろうが」
「別に構わない。……君の言う通り、僕は少し、人と話していた方がいいのかもしれないからね」
自嘲気味に言うレインハルトの目に光はない。
話し相手が欲しいだけか?
それとも、自分の中の狂気が完全に暴走しないよう、あえて俺のような外部の人間を傍に置いておきたいのか。
どちらにせよ、リオン殿もいない邸にこいつを一人にしておくのは、爆弾の導火線に火をつけたまま放置するようなものだ。
「……。お言葉に甘えて、しばし世話になるか……」
俺は大きく息を吐き出し、ソファーに深く沈み込んだ。
親善試合で華やかに笑い合っていたあの日は遠い昔のことのようだ。
ライバル視していた男の深い闇を前にして、俺はただ、
行方知れずの公爵夫人が無事に見つかることを柄にもなく神に祈るしかなかった。




