24_戦争の傷痕 クラリスside
王宮の賓客用客室が並ぶ西翼の回廊は、ひどく静まり返っていた。
豪奢な赤絨毯がヒールの音を吸収し、どこまでも無音の世界を歩いているような錯覚に陥る。
親善試合の熱気はとうに消え失せ、今この王宮を支配しているのは得体の知れない影に対する極度の緊張と疑心暗鬼だった。
わたくしはひんやりとした石壁の冷気を肩越しに感じながら、ある客室の前に立った。
大きく息を吸い込み、重厚なオーク材の扉をノックする。
「開いてるぜ。……って、あんたは」
扉の向こうから顔を出したのは、赤い髪をした巨漢だった。
ベルツ王国所属の魔導師、グリオール・ロドリゲス。
レインハルト様の学生時代の学友だという彼は、自国の使節団が帰国した後も一人この国に残り、シャルロット様の捜索に協力してくれている。
「ごきげんよう、グリオール様。突然の訪問をお許しください。少しよろしいかしら」
「おう。レインハルトの元部下のクラリスさんだったな。構わねぇよ、入ってくれ」
無造作に招き入れられた客室には、強い葉巻の匂いと微かな鉄の匂いが漂っていた。
壁際には彼の得物である巨大な戦斧型の魔導具が立てかけられており、優雅な王宮の客室にはひどく不釣り合いな野戦の空気が満ちている。
「で? 俺に何か聞きたいことでもあんのか」
グリオール様は長椅子にどかと腰を下ろし、わたくしに視線を向けた。
わたくしは背筋を伸ばし、単刀直入に切り出した。
「ベルツの事情についてお伺いしたいのです。今回の親善試合に参加したベルツの使節団や招待選手の中に、影魔法の使い手はいなかったかしら」
その問いに、グリオール様は眉をピクリと動かした。
一瞬、彼の豪快な顔に迷いの色が過る。
自国の人間を売るような真似になるかもしれないという葛藤だろう。
しかし、彼は深く息を吐き出し、重い口を開いた。
「……影魔法なら、サミュエルだな。サミュエル・クーパー」
「クーパー……ですか……」
「どうした?」
わたくしは無意識に、懐に忍ばせていた羊皮紙の上から胸元を押さえていた。
「ええ、いえ……。今、魔法省の伝手を使って、親善試合に参加した五か国を中心に、影魔法の名家を末端まで洗い出してもらっているのです。ですが……ベルツのリストに『クーパー家』という名は確認できていなかったので」
影魔法は原初の魔法。
血筋に強く依存するため、その家系は必ず各国の歴史のどこかに名を残しているはずなのだ。
突然変異で高度な影を操る者が現れる可能性は、限りなく低い。
「ああ、それは……」
グリオール様は頭を掻き、ひどく苦いものを噛み潰したような顔をした。
「四年前、シルバードとウチの国がやりあって、ウチが敗けたろ? まあ表向きは平和的に解決したって体にはなってるが」
四年前の戦争。
わたくしは降嫁してすでに退役していた。
当時はシャルロット夫人に見舞いを兼ねて挨拶に訪れた記憶はある。
そして、レインハルト様の黄金の魔力は、まさに破壊の化身だったとも伝えられている。
「あの時、俺は生まれがシルバードだってことで別の国との国境に飛ばされてたから、シルバードとの戦局は詳しくは知らねぇ。けど、レインハルト率いるシルバード魔導軍にコテンパンにやられて、ベルツの主力が全部灰にされたって話だぜ」
「ええ。もちろん魔導で有名なベルツ相手ですし苦戦はした模様ですが、凄惨な戦いだったとは聞いていますわ」
「それでその時のベルツ側の総大将だったのが、『グレンフィールド公爵家』だ」
その名を聞いた瞬間、わたくしの背筋を氷の刃が滑り落ちた。
グレンフィールド。
「大敗を喫したグレンフィールド家はベルツ王の逆鱗に触れて取り潰しになってな。まあ、サミュエルの父親も祖父も戦死したらしいが。それで唯一生き残ったサミュエルの処遇どうするかって話になって……」
グリオール様の言葉が、わたくしの脳内で恐ろしいパズルを完成させていく。
「新しい家名『クーパー』と、お情けの伯爵位を与えられたっていう話だ」
――生き残ったグレンフィールドの末裔。
公爵家から伯爵家へと身分を落とされ、家名すら奪われた男。
彼がどれほどの屈辱と、一族を焼き払われた憎悪を胸に秘めて生きてきたか。
(レインハルト様への憎しみはいかほどのものか。シャルロット様を攫う動悸が無いわけではない……)
わたくしは冷や汗が滲むのを感じた。
「……ベルツの使節団は、もう帰国したのですよね」
震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて冷静に尋ねた。
「ああ。俺を残して事件の翌日の昼には発った」
グリオール様は腕を組み、思い出すように目を細めた。
「そういえば、あいつ……サミュエルが発つ前に言っていたな。国家間の転移門の使用は国際法で禁じられているから、来たときと同じく国境の関所までは馬車を使い、そこから転移門で本国へ移動すると」
「そうでしょうね。外国人であれば他国での転移門の使用も禁じられているはず」
ベルツ国境までは馬車で。
この王都からなら四日はかかるだろう。
「あの親善試合に参加したメンツなら、転移門が開けるのはサミュエルだけだ。オレも転移門は扱えねぇしな」
その言葉にわたくしの思考が急速に回転を始める。
国境を越えた先、ベルツ領内で転移門を開いたのだとしたら。
転移門の術者は自らが門を潜れば外側から痕跡を消すことができない。
全員でその門をくぐったのなら、国境の転移門の痕跡には必ずサミュエルの『残滓』が残っているはずだ。
(転移門の痕跡はおよそ一週間は消えない。今から向かえば、まだ間に合う……!)
国境に残されたその波動と、先日王宮の馬車留めの水から抽出した影魔法の波形。
その二つを照合し、完全に一致すれば……サミュエル・クーパーが誘拐犯であるという動かざる証拠になる。
「なあ、クラリスさん」
不意に、グリオール様が低く凄みのある声を出した。
「……ベルツが疑われているのか? まあ、四年前シルバードとやりあってたのは確かだし、動機がないとは言えねぇが」
彼の目には引き裂かれるような、苦渋の色が浮かんでいた。
いくら彼が豪快な男であっても自国が国家ぐるみの犯罪を疑われていると知れば、穏やかではいられないだろう。
「あ、それはその……」
わたくしは言葉を濁し、わずかに目を伏せた。
「今はまだ、何とも言えませんわ。魔法省はあらゆる可能性を精査している段階です。……わたくしも、弟の手伝いで情報を集めているに過ぎませんので」
外交問題に発展しかねない情報をここで彼に確定的に伝えるわけにはいかない。
わたくしの歯切れの言葉に、グリオール様は何かを察したように短く息を吐いた。
「……まあ、そうだよな。変なこと聞いて悪ィ」
「いえ。貴重なお話をありがとうございました。グリオール殿」
わたくしは一礼し、早足で客室を後にした。
再び無音の回廊へ出た瞬間、張り詰めていた息を深く吐き出す。
指先が氷のように冷たくなっていた。
回廊の窓際に寄り、周囲に誰もいないことを確認してから、わたくしは懐に忍ばせていた羊皮紙を取り出した。
各国の主要な影魔法の名家を洗い出してもらった、魔法省の写し。
その視線の先。
ベルツ王国の欄の一番上に記されていた古い家名を、わたくしは指先でなぞった。
『影魔法の大家。グレンフィールド公爵家』
すでに滅びたはずの亡霊が、四年の歳月を経て再びこの国に牙を剥いたのかもしれない。
レインハルト様が愛に溺れ、牙を抜かれた獅子のように大人しくなっていたその陰で、亡霊は着実に復讐の刃を研ぎ澄ませていた……?
(すぐにイザベラに連絡を取らなければ)
国境へ向かい、痕跡を照合するために。
魔法痕跡の採取は影の専門家であるイザベラと、水の記憶を辿れるわたくしの二人でしかできない仕事だ。
戦争の傷痕は、まだ少しも癒えてなどいなかった。
わたくしは羊皮紙を強く握り締め、冷たい石造りの回廊を出口へ向かって駆け出した。




