23_王の来訪と殺意の矛先 レインハルトside
応接室の重厚なオーク材の扉を開けると、ふわりとベルガモットの香りが漂ってきた。
使用人が客人のために淹れたであろう、最高級のアールグレイの香りだ。
「……待たせたね、エルネスト。セリア王妃」
僕が静かに室内に足を踏み入れると、ソファーに腰掛けていた二人がハッと顔を上げた。
シーランド国王であるエルネストと、その妻セリア。
学生時代からの気心の知れた友人とはいえ、一国の王と王妃を待たせるなど、本来であれば許されることではない。
だが、二人は僕の完璧に整えられた身なりと感情を削ぎ落とした顔を見て、ひどく痛ましそうな視線を向けた。
「レインハルト。……少しは、眠れたのかい?」
エルネストが王としての威厳を脇に置き、ただの友人としての気遣うような声を出した。
「ああ。心配をかけてすまなかった」
僕は対面のソファーに腰を下ろし、静かに答えた。
「君たちには本当に迷惑をかけている。本来であれば親善試合の二日後にはシーランドへ帰国する予定だったはずだ。王宮の封鎖に巻き込み、足止めしてしまったこと、シルバードの公爵として深く詫びよう」
僕が頭を下げようとすると、エルネストは慌てて手を振って制止した。
「よしてくれ。僕たちは自分たちの意思で残ったんだ。……それに王宮内では今、大規模な魔力波形照会が行われているのは知っているだろう?」
エルネストの言葉に僕は小さく頷いた。
リオンが言っていた、クラリスや現魔法省の面々たちが動いているという件だ。
執事からの報告によれば、親善試合で訪れた外国の特使を重点的に、そして国内のすべての魔導師の波形を洗い出しているらしい。
「私たちシーランドの使節団も全員進んで波形の測定に協力させてもらった。……無事に疑いは晴れたことだし、本国をこれ以上空けるわけにもいかないから、そろそろ帰るよ」
エルネストはそう言いながら卓上のティーカップを見つめた。
カチャリと磁器が触れ合う微かな音が、やけに大きく室内に響く。
「レインハルト。君の心痛は察するに余りある。だが、どうか希望を捨てないでくれ。シルバードの総力を挙げて、必ず奥方は見つかるはずだ」
儀礼的でありながらも、確かな友情がこもった言葉。
だが、僕の心を満たしているのは希望などという温かいものではない。
世界を灰にしてでもシャルロットを取り戻すという、狂った執着だけだ。
僕が無言で薄く笑みを浮かべた時だった。
隣に座っていたセリア妃が真剣な眼差しで僕を真っ直ぐに見据えた。
「……レインハルト殿。少し、よろしいでしょうか」
「なんでしょうかセリア王妃」
「夜会の時からずっと気になっていたのです」
セリアの絹擦れの音が微かに響く。
彼女は躊躇うように伏し目がちになり、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「奥方様……。シャルロット様は普通の女性ではございませんよね?」
ドクン、と。
心臓を素手で掴み出されたような感覚に陥り、僕はびくりと肩を震わせた。
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
応接室の空気が僕から漏れ出した無意識の魔力によって、一瞬軋みを上げた。
「……それに、あの肩に乗っていた生き物。あれは魔界の……」
セリアの言葉が決定打となり、僕の右手にギリッと力が入る。
シャルが淫魔の血を引いていること。
そして、あのキールという生き物が魔界の獣であること。
僕が全力で隠蔽してきた「黄金の檻」の秘密の根幹に、彼女は今触れようとしている。
「……お気付きになっていたので?」
低く、ひどく冷たい声が自分の口からこぼれ落ちた。
「夜会では、光の屈折を利用した高度な認識阻害の魔法をかけてはいたのですが」
――もし彼女たちがシャルを化物だと弾劾しに来たのだとしたら。
(僕はシーランドごと地図から消し去らなければならなくなる……)
僕の眼の奥で黄金の魔力が危険な瞬きを始めたのを感じ取り、セリア妃は弾かれたように顔を上げ、両手を振った。
「あ!……違うのです、責めたいわけではなく……!」
彼女の瞳には敵意や軽蔑は一切なかった。
あるのは、純粋な祈りのような切実さだけだった。
「ただその、普通の人間ではないのなら……一般的な女性より、身体はお強いのかもしれないと思ったのです」
「……え?」
「きっと、どんな過酷な状況でも、奥様は持ち堪えていらっしゃる。だから、どうか心が折れる前に根気よく探しましょう。ここが踏ん張りどころでございますわよ」
その言葉の意味を理解した瞬間、僕の中で張り詰めていた殺気の糸がふつりと解けた。
……そうか。
セリア妃はシャルの正体を暴きに来たのではない。
絶望に沈む僕に、「彼女は強いから、まだ生きている」という『希望』を教えに来てくれたのだ。
淫魔の特異な生命力。
魔力を喰らい、自らの細胞を維持するあの身体なら、並の人間がとうに死に絶えるような環境でも生き延びられる可能性がある。
「セリア王妃……」
僕は深く息を吐き出し、肩の力が抜けるのを感じた。
「あのフクロウのような魔獣も、シャルロット様とご一緒に攫われたのですか?」
「……グリフィンの幼獣のようです。……いや、分からない。一緒にいるというのも考えづらいです。どちらにせよ見つかればすぐ殺されそうだ」
僕の脳裏にキールの小さな丸い姿が浮かぶ。
誘拐犯があの異質な獣を生かしておく理由がない。
「もう殺されてるか、逃げおおせているか……か」
エルネストが顎に手を当てて呟く。
「数か月前、中庭で妻が拾ったのです。大人しく、従順だったため殺さず手元に置いてはいましたが……。常人にはフクロウにしか見えないでしょうが、やはり見る者が見れば魔獣だと気付きますね」
セリアは小さく頷くと、ドレスの隠しポケットから何かを取り出し、そっとテーブルの上に置いた。
コトリ、と涼やかな音が鳴る。
それは親指ほどの大きさの、美しい硝子細工の小瓶だった。
中には星の瞬きを液状にしたような、淡く温かい金色の液体が揺蕩っている。
「わたしの光魔法が込められた回復薬ですわ。……奥様に会えたら、これを」
小瓶から発せられる清らかな魔力の波動が、僕の冷え切った指先を温かく包み込んだ。
光魔法を極めた血統のみが作り出せる、最高純度の光の秘薬。
どんな致命傷であろうと、命の灯火を繋ぎ止めることができる奇跡の雫だ。
これを抽出するために彼女がどれほどの魔力と体力を削ったか、想像に難くない。
「……ありがとうございます、セリア妃」
僕は小瓶を両手で大切に包み込み、深く、深く頭を下げた。
喉の奥が震え、声が微かに掠れた。
僕の中にあるのはシャルを攫った者への、底なしの昏い殺意だけではない。
僕とシャルを案じ、光を与えてくれる親友たちの優しさが確かにこの手の中にある。
(待っていてくれ、シャル。必ず見つけ出す……)
小瓶の温もりを掌に感じながら、僕は自分の中の『殺意の矛先』が極限まで鋭く、冷徹に研ぎ澄まされていくのを感じていた。




