22_愛の欠片 レインハルトside
ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。
陽だまりのような暖かさと頭を包み込む柔らかな感触。
僕は深い安堵の中でまどろんでいた。
シャルの膝枕だ。
銀糸を織り込んだような美しい薄紫色の髪が僕の頬をさらさらと撫でる。
彼女の細く白い指先が僕の髪を梳くたびに、心地よい痺れが背筋を伝っていく。
(ああ、ずっとこうしていたい……)
永遠に続くかと思われた穏やかな午後のまどろみ。
けれど、不意にその優しい手がピタリと止まった。
「まあ、子どもたちが泣いていますわ」
シャルが鈴を転がすような声で言い、僕の頭をそっとクッションへ移す。
彼女の温もりが離れていく。
「待ってくれ、シャル、一緒に……」
手を伸ばすが、指先は空を切るばかり。
光に包まれていた世界が急速に色褪せ、彼女の背中が深い闇の奥へと吸い込まれていく。
――行かないでくれ。
僕を置いていかないで。
声にならない叫びを上げた瞬間、ぐらりと足元が崩れ落ちた。
***
「……っ!」
跳ね起きると、そこは冷たく薄暗い地下書庫だった。
陽だまりの香りなどどこにもない。
埃と、古い羊皮紙と、乾いたインクの匂い。
そして冷え切った石床から這い上がってくる容赦のない冷気だけが、僕を現実に引き戻した。
リオンがここへやって来て指輪の欠片を見せられてから一体どれだけの時間が経ったのだろう。
僕を軽蔑するような冷たい目を向けて出て行った息子の背中を思い出し、胸の奥が鈍く痛む。
(……夢の通りだ)
遠くから微かに泣き声が聞こえる。
それは記憶の中の幻聴ではなく、地下書庫の重い扉越しに響いてくる現実の泣き声だった。
僕は重鉛のように軋む身体を無理やり動かし、ソファーから立ち上がった。
数日間まともに食事を摂っていない身体は、ひどく重い。
フラフラと覚束ない足取りで書庫を出て、子どもたちのいる別館へと向かった。
近づくにつれ、わあわあと泣き叫ぶ声が鮮明になる。
「ママ、ママぁっ……!」
「ええーん、えーん……っ」
別館の子供部屋。
開け放たれた扉の向こうでは、四歳になる三つ子のカトレア、ヴィオラ、ヴァレリアンが、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。
十歳のリリアンと七歳のイリスが、必死に彼らを抱きしめて背中を撫でている。
けれど、慰めている彼女たち自身の瞳からも、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「パパ……!」
「お父様……っ」
扉の前に立つ僕の姿に気づき、子どもたちが一斉にこちらへ縋り付いてきた。
細い腕が僕の腰や脚に巻き付く。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
ひどく高く、けれどひ弱な体温。
その熱に触れた瞬間、僕の脳裏に忘れていた記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
――十四年前。
血と汗の匂いが充満するエリュシオン侯爵家の産室。
初めての出産に苦しみ、青白い顔で荒い息を吐いていたシャル。
そして響き渡った、リオンの力強い産声。
『……僕がこの世界のすべてを敵に回してでも、守り抜いてみせる』
震える手で赤子を抱き、僕は彼女の涙に濡れた頬に口付けながら、そう誓ったはずだった。
――そしてつい四年前は。
三つ子を身籠ったシャルは出産に際してひどい出血多量に陥り、命を落としかけた。
部屋中を覆い尽くすほどの濃厚な血と鉄の匂い。
あの時の、心臓が凍りつき、気が狂いそうになった絶対的な恐怖。
シャルは自らの命を削って、この子たちを産み落としてくれたのだ。
僕の狂おしいほどの愛と執着をすべて受け止め、その結晶として、この命を紡いでくれた。
(シャルが命を懸けて産んだ宝物たちを……僕は見捨てていたのか)
母親を奪われ、一番心細く怯えている幼い子どもたちを放置し、自分だけが絶望の底に引きこもり、惨めにうずくまっていた。
激しい自己嫌悪が、刃となって僕の胸を滅多刺しにする。
「……ごめん。すまなかった、みんな」
僕は床に膝をつき、泣きじゃくる子どもたちをまとめて力強く腕の中に抱きしめた。
ごつごつとした僕の腕の中で、小さな身体がヒックヒックと震えている。
ふと、部屋の中を見回して違和感を覚えた。
「リオンと……、サリエスとアルテミス達は?」
僕の問いにリリアンがしゃくりあげながら答える。
「お兄ちゃんたちは……最近はずっと、昼間は王宮に行っているみたいなの」
「なぜ?……」
「わかんない。でも、絶対にお母様を見つけるって……」
十四歳の長男と十二歳の双子たちが自分たちの足で動き出している。
僕には頼らず、自分たちの手で母親を取り戻そうとしているのだ。
「そうか……」
僕は目を伏せ、唇を噛み締めた。
「まあいい、あの子も自分で判断ができはじめる年ごろだ」
彼らを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
けれど、聡明な子たちだ。
これまで、僕の技術の全てを丁寧に教えてきた。
子どもたちの頭を撫で、安心させるように魔力の温風を流し込むと、疲労しきっていた彼らは次第に泣き止み、メイドたちの腕の中で眠りに落ちていった。
***
自室に戻った僕は、二日ぶりに浴室へと向かった。
肌を刺すような熱い湯を浴び、こびりついた埃と汗、そしてまとわりついていた絶望の気配を洗い流す。
湯上がり。
大きな鏡の前に立った僕は、そこに映る自分の姿を見て愕然とした。
両頬はこけ、目の下には暗いクマが張り付いている。
顎には無精ひげが伸び、唇はひび割れ、肌は死人のように血の気がない。
公爵としての威厳など微塵も残っていない。
ただの、壊れた惨めな男の顔だった。
「たしかに……こんな顔ではシャルに会えないな……」
自嘲気味に呟き、僕は剃刀を手に取った。
丁寧に髭を剃り落とし、髪を整える。
クローゼットを開け、皺ひとつない白シャツを取り出す。
漆黒の仕立ての良い服を選び、袖を通した。
胸元には、ヴァルテンベルク公爵家の紋章が彫り込まれたピン。
鏡の中に再び『ヴァルテンベルク公爵』の姿が戻ってきた。
だが、その金色の瞳の奥に宿るものは、以前のような余裕のある光ではない。
絶対零度の、どこまでも冷たく静かな怒り。
僕のすべてであるシャルを奪い、子どもたちを泣かせた者へ向けた純粋な殺意だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
執事のセバスチャンだ。
「旦那様。……お客様がお見えです」
「誰だ。今は誰とも会いたくはないのだが」
僕が冷たい声で応じると、扉の向こうのセバスチャンは少しだけ声を潜めて言った。
「それが……シーランド国王エルネスト陛下とセリア王妃殿下が、非公式に直接こちらへとお見えになりまして……」
エルネストと、セリア王妃。
一国の王が親善試合の後の帰国日程を大幅に遅らせてまで、お忍びでこの公爵邸を訪ねてきたというのか。
僕はネクタイを締め直し、冷たい瞳を細めた。
「……通せ。応接室で待っていてもらってくれ」




