15_極寒の岩牢 シャルロットside
深い、深い闇の中を漂っていました。
意識が水底からゆっくりと浮上してくるような、ひどく曖昧な感覚。
けれど、次にわたしを襲ったのは骨の髄まで凍りつくような圧倒的な寒さと、冷たい石の匂いでした。
「うっ……、あ……」
声を出そうとして、目には分厚い布が巻かれ、視界が完全に奪われていることに気が付きました。
そして、背中にはゴツゴツとした硬い岩肌の感触。
どうやら、わたしはどこかの冷たい石の床に転がされているようです。
(ここは……どこなの。レインハルト様、リオン……!)
心の中で愛する家族の名を叫びます。
けれど、この閉ざされた空間にはレインハルト様の温かく力強い魔力の残り香さえ一欠片も感じることはできません。
いつもなら、わたしが不安を感じればすぐに彼の黄金の魔力が包み込んでくれるのに。
今わたしの肌を刺すのは、ただの物理的な寒さだけではありませんでした。
魔力を強引に抑え込み、命の活動そのものを鈍らせるような、重厚で冷酷な魔導結界が放つ特有の『圧』です。
身じろぎしようとして、カチャリ、と無機質な音が鳴りました。
手首と足首に、ずしりと重い鉄の感触。
それはわたしの肌を無慈悲に締め付ける枷でした。
(わたしは……攫われたのですね)
王宮の正門でレインハルト様が馬車へのエスコートをしようと手を離した、あのほんの一瞬。
足元から湧き上がったどろりとした影に飲み込まれたかと思うと、次の瞬間息が詰まるような転移の感覚を味わったところまでは覚えています。
そこから先の記憶は完全に途切れていました。
恐怖で心臓が早鐘のように打ち始めます。
視界は奪われ、言葉すら発せない。
お腹の中にはまだ小さな、レインハルト様との新しい命が宿っているというのに。
(どうしよう……。どうか、この子だけは無事で……)
手枷の食い込む痛みを堪えながら、わたしは冷たい床の上で必死に祈ることしかできませんでした。
不意に、キィィィ……と、重厚な鉄の扉が軋む音が響きました。
同時に、複数の男たちの靴音が冷たい石の部屋に足を踏み入れてきます。
目隠しをされているわたしにとって、その足音は死神の行進のように不気味に響きました。
わたしは息を殺し彼らの気配に全神経を集中させました。
「――観測データは間違いないか?」
低く理知的ながらも温度のない声。
その声には聞き覚えがありました。
確か、夜会で聞いた……?
「はい。放射魔導光を間近で浴びてなお、この女の細胞は一つとして損傷していません。それどころか、浴びた魔力を即座に吸収し、自らの生命維持の糧にしている形跡があります」
別の、ひどく事務的な男の声が答えます。
「やはりな。この世のものとは思えぬほど美しいと大陸中に知れ渡っていたヴァルテンベルク公爵夫人が、まさか本当に『人外』だったとは。最強の魔導師が必死に人目を避け、あの公爵邸の奥深くに隠そうとしていたわけだ」
聞き覚えのある男の声には、冷ややかな嘲笑が混じっていました。
「ええ。我々は魔導の発展のために、これを研究せねばなりません。この美貌という皮を被った『魔物』を……。この女の異常な生命維持のメカニズムを解明すれば我が国の魔導の歴史は根底から塗り替えられるでしょう」
彼らの言葉に、わたしは全身の血が凍りつきそうでした。
(っ!! 魔物……わたしを研究材料に……?)
彼らはまだわたしが「淫魔」の血を引いているという真実には辿り着いていないようでした。
しかし彼らの歪んだ知的好奇心は、すでにわたしの身体の「異常な魔力吸収」の秘密を暴く算段を立てているのは明らかです。
「実験データを取りながら、この極限状態の環境でどれほど生存できるか。魔力の供給を完全に絶った状態での『細胞の崩壊プロセス』を記録する。食事も水も与えるな」
「はっ。生命維持のリミットを測定します。ただの人間であれば三日と持たない環境ですが、この魔物がどこまで耐えられるか見物ですね」
「死にそうになったら水だけは与えろ。いずれは解剖するが……まだその時ではない」
「はっ……」
男たちの声には、わたしを「人間」として、あるいは「ひとりの女性」として扱う意志など微塵も感じられません。
彼らにとってわたしはただの希少で有用な『標本』に過ぎないのでしょうか。
もし彼らが、わたしの身体がレインハルト様の魔力と精気によってのみ維持されていることを知れば、どれほど残酷な実験が行われることでしょう。
(怖い……どうしてこんなことに。……レインハルト様……!)
「さて……」
男の冷たい声が、わたしのすぐ頭上から降ってきました。
「意識は戻っているようだな、ヴァルテンベルク公爵夫人。いや……名もなき魔物と呼ぶべきかな?」
ビリッ、と目隠しにされていた布が乱暴に引きちぎられました。
「うっ、……はぁっ……はぁ、はぁ……」
しばらくぶりに光が差し込み、わたしは眩しさに目を細めました。
といっても、それは魔法灯の青白い無機質な光に過ぎません。
ぼやける視界が次第に焦点を結び、わたしを見下ろす男の顔が鮮明に映し出されました。
「……っ!!」
声で、予想はついていたはずです。
しかし、いざその顔を直接目の当たりにすると。
絶望が確信へと変わり、喉の奥がヒュッと鳴りました。
整った、けれど爬虫類のように感情の欠落した冷酷な顔。
右目を覆う黒い眼帯。
そして残された左目には、人間を見る目ではなく解剖台の上の蛙を見るような、狂気にも似た知的好奇心が燃え盛っていました。
「サミュエル……クーパー伯爵……っ」
わたしが震える唇でその名を紡ぐと、男は愉快そうに、けれど全く笑っていない目で唇を歪めました。




