10_隻眼の観察者 レインハルトside
「ヴァルテンベルク公爵夫妻にご挨拶申し上げます」
背後から、温度のないひどく平坦な声がかけられた。
振り返ると、そこには昼間の試合でベルツ国の陣営にいた、右目に眼帯をした男が立っていた。
ベルツチームのリーダーだったサミュエル・クーパー。
彼は僕と同じように司令塔に徹していたため、その能力は測りかねるが……。
「……貴殿は、ベルツ国の」
「はい。ご学友だと伺っているグリオールは私の部下にあたります。昼間は素晴らしい魔術展開を拝見いたしました」
「こちらこそ。ベルツ戦は一番骨が折れましたゆえ。さすが指折りの魔導師を多数抱えていらっしゃいます」
「はは。天下に名が轟くヴァルテンベルク公様にお褒めに預かるとは光栄の至り」
サミュエルの残された左目が、じろりとシャルを舐め回した。
「失礼。夫人のあまりの美しさに息を呑んでしまいまして。……まるで、この世の理から外れたような、女神が地上に降り立ったのかと見紛うほどでございます」
「……」
「いやですわ。そのように言われてしまうと、お恥ずかしいかぎりで……」
サミュエルの言葉に、僕の背筋に冷たい緊張が走った。
単なる誉め言葉? いや、違う。
ギルオールと同じだ。
この男はシャルの異常な美しさを単なる容姿としてではなく、彼女の特異な『生命力』そのものを値踏みしている。
僕の周囲の空気が、無意識に漏れ出した魔力によって微かに軋み始めたその時。
『――ギチチ……ッ! クエェェェッ!!』
シャルの肩に止まっていたキールが突然、毛を逆立ててサミュエルに向かって威嚇の鳴き声を上げた。
認識阻害の魔法をかけているため、周囲にはただの髪飾りが揺れたようにしか見えないはずだが。
普段は大人しい魔獣の幼体が一体どうしたというのだろうか。
「おや……? 夫人の髪飾り、ずいぶんと珍しい魔力が宿っているようですね」
サミュエルが目を細め、一歩こちらへ踏み出そうとした。
「シャル、もう帰ろう」
僕はサミュエルの言葉を完全に無視し、シャルの手首を強く握った。
「えっ!? レインハルト様!? 夜会はまだ始まったばかりで、お食事にも全く手をつけておりませんけれど」
驚いて見上げるシャルを、僕は強引に引き寄せる。
「いいんだ。もう十分だ。……帰ろう、今すぐに」
ここに長居してはならない。
僕の直感が、かつてないほどの最大音量で危険を知らせていた。
(これ以上、シャルの姿を誰の目にも触れさせたくない)
ここはいつもの夜会ではなかった。
各国の最高位の魔導師が集う、異質な場だったのだ。
(エルネスト達は何も言わなかったが、真実を暴く光魔法を得意とするセリア妃に会わせてしまったのはまずかったかもしれない)
僕はサミュエルを一瞥もせず背を向けると、シャルの手を引き、半ば引きずるような早足で出口へと向かった。
「レインハルト様っ少し歩くのが早いですわ……っ」
「ごめんシャル。でも急ごう。馬車はもう待たせてある」
背後から突き刺さるあの隻眼の視線を振り切るように。
僕は王宮の長い回廊を抜け、夜風の吹く玄関口へと急いだ。
(早く、彼女を公爵邸という絶対の安全圏――、僕の『檻』の中へと閉じ込めなければ)
得体の知れない焦燥感に急き立てられながら、僕はシャルの手を痛いほどに強く握りしめていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
息切れするほどの早足で階段を駆け下りる。
「はぁ、はぁ……、あなた、どうされたのです……?」
「あぁ、すまない。突然……。ハァ……。僕のミスだった、もっと警戒しなければいけなかったのに」
「なにを?……」
「ここ数年穏やかに過ごせていたからかな。……いや、言い訳をしたいわけじゃないんだ。理由は追って話す。……さあ」
馬車寄せには、すでにヴァルテンベルク家の紋章が入った豪奢な馬車が待機していた。
御者が恭しく頭を下げ、馬車の扉を開ける。
僕はシャルを先にエスコートしようと、握っていた彼女の右手を離し、彼女の腰に手を回そうとした。
その、ほんの瞬きの間。
「シャル――」
振り返った僕の言葉が凍りついた。
忽然と、僕の腕の中からシャルロットの姿が消えたのだ。
彼女が立っていた石畳の上に、闇よりも深い、石油のようにどろりとした水たまりのような『影』が広がっていた。
それはトプン……と不気味な水音を立てると、まるで生き物のように地面に吸い込まれ、一瞬にして消え去った。
シャルの姿も。
彼女の肩に張り付いていたキールの姿も。
何もかもが、その影と共に消え失せていた。
「シャル!? シャルロット!!!!」
夜の静寂を切り裂く、僕自身の絶叫が響いた。




