18_聖なる検体と、賢者の迷走・朝の陣
翌朝、王立ラピスラズリ学園の廊下には爽やかな朝陽が差し込んでいましたが、わたしの胸中は昨夜の「宿題」のことで嵐のように荒れ狂っていました。
手の中にあるのは、昨夜、自室で悶絶しながらもなんとか規定量を満たした、一本の試験管。
(これを提出すれば、レインハルト様の研究が進み、わたしたちの未来が拓ける……!)
そう自分に言い聞かせ、わたしは意を決して、昨日と同じ研究室の扉を勢いよく開けました。
「失礼いたします、レインハルト様! 検体を持ってまいりましたわ!」
わたしの元気すぎる声に、机で何やら複雑な数式を書き殴っていたレインハルト様が、跳ねるように肩を揺らしました。
その目の下には、うっすらと隈が。
……まさか、一睡もなさっていないのでは?
「……あ、ああ、シャルロットか。おはよう。……早かったな」
「はい! 昨夜、ベッドの中で何度も貴方のことを思い浮かべながら。……あ」
口を滑らせたわたしの言葉に、レインハルト様が手に持っていた羽根ペンが、ピキッと音を立てて折れました。
「……ベッドで。僕を。思い浮かべながら、……それを?」
「ち、違いますの! 学術的な意味で、その、集中力を高めるためにですわ!」
わたしは真っ赤な顔で、昨夜の努力の結晶である試験管を差し出しました。
朝の光に透けるそれは、どこか神々しくすらあります。
レインハルト様は、震える指先で試験管を受け取りました。
彼はそれを、まるで伝説の聖遺物でも扱うような手つきで目の高さに掲げ、まじまじと見つめます。
「……素晴らしい。不純物のない、純粋な君だけの検体だ。これを分析すれば、君の芳香分子が僕の脳内魔力物質に与える影響を、完璧に数値化できる……」
彼はブツブツと独り言を言いながら、おもむろに試験管の栓を抜きました。
その瞬間。
「あ……」
閉じ込められていた濃縮された「蜜の香り」が、春の突風のごとく室内に解き放たれました。
昨日、彼に愛撫された記憶。
抱きしめられた熱量。
そんなわたしの「高揚」が詰まった香りは、狭い研究室を一瞬にして淫靡な甘さで支配してしまったのです。
「……っ!!」
レインハルト様の黄金の瞳が、カッと見開かれました。
みるみるうちにその瞳孔が濁り、理性の壁がガラガラと音を立てて崩落していくのが目に見えるようです。
「レ、レインハルト様? お顔が怖いですわ!」
「……シャルロット。君は、自分が何を提出したか分かっているのか。これは検体などではない。……僕を殺すための、最強の触媒だ……!」
「はぁ、はぁ……っ! 離れろ、シャルロット! 今すぐ僕から三メートル……いや、十メートルは離れるんだ!」
「でも、研究を手伝いに来たんですのよ!?」
わたしが慌てて歩み寄ると、香りの源泉が近づいたことに絶望したのか、彼はついに禁じ手に出ました。
「『大気に漂う冷気よ、我が理性の糧となれ!』……【瞬間結氷】!!」
パキパキパキッ!!
凄まじい魔力が炸裂し、次の瞬間、レインハルト様の足元から腰のあたりまでが、巨大な氷の塊に閉じ込められました。
「ええええっ!? ご自分に氷結魔法を!?」
「こうでも……しないと……っ、僕の……僕の中の『獣』が、君を食い散らかしに……行ってしまう……ッ!」
氷漬けになりながら、肩で激しく息をする王国最強の魔導師。
しかし、氷で冷やしているはずなのに、彼の顔は茹で上がったように赤く、耳からは蒸気が出そうなほどです。
さらに悪いことに、彼が手放さなかった試験管からは、いまだに甘い香りが漂い続けています。
「レインハルト様、まずはその試験管に栓をしましょう! はい、あーん……じゃなくて、渡してください!」
「来るな……! 来るんじゃない! ……あぁ、もう、なんていい匂いだ……。シャル、君の唾液を分析する前に、僕が摂取してしまいそうだ……」
「それは分析ではなくただの接吻ですわ!」
わたしは滑る氷の上を必死に渡り、氷漬けのレインハルト様の手から試験管を取り返そうとしました。
けれど、バランスを崩したわたしの身体は、そのまま彼の逞しい胸元へとダイブする形に。
「ひゃうんっ!?」
「シャル……っ!」
レインハルト様は慌ててわたしを抱きとめる。
氷の冷たさと、彼の身体の熱さ。
そして密着したことで、わたしの「恋情」と彼の「本能」が、至近距離で激突しました。
わたしは慌てて試験管の口を指で必死に押さえました。
―レインハルト様、正気に戻ってくださいましっ!!
「……シャルロット。君、わざとやっているだろう」
「わざとじゃありませんわ! 氷が滑るんですもの!」
「……ハァ、もう……分かった。魔法専科の予算で、僕の精神安定剤を大量発注しておく……」
結局、レインハルト様は自力で氷を砕くと、検体(試験管)を金庫の奥深くに放り込み、三重の封印魔法をかけました。
「分析は……僕の心が、もう少し鋼のようになってからにする」とのことです。
研究室を出る際、彼はボロボロになった姿で、わたしの耳元にこう囁きました。
「……今日は一緒に帰ろう。試験管越しじゃなく、直接『検体』を……いや、君のすべてを、研究しなければならない」
その声があまりにしっとりと色っぽかったので、胸の奥がまた熱を帯びたのは、別のお話です…。




