16_繋がれた指先、背徳の甘さ
王立ラピスラズリ学園の喧騒から離れた休日。
城下町を彩る石畳は、春の柔らかな陽光を浴びて、まるで砕いたガラスを敷き詰めたように輝いています。
「シャルロット、歩く速度は早すぎないかな?」
隣を歩くレインハルト様の声は、かつての氷のような冷たさを微塵も感じさせないほど深く、甘く響きます。
彼はわたしの細い指先を、壊れ物を扱うような慎重さで包み込んでいました。
――けれど時折、まるで逃がさないと念を押すように、骨が軋むほど強い力がぐっと込められる。
その微かな危うさが、わたしたちの間に横たわる禁忌を思い出させます。
「いいえ、ちょうどいいですわ。……こうして貴方と並んで歩けることが、まだ夢のようで」
わたしは繋がれた手に少しだけ力を込めました。
数日前、公爵邸の私室で彼の一部となったあの日から。
わたしたちの関係は、もはや後戻りのできない深淵へと堕ちたのです。
市井の人々が美しい美貌を持つレインハルト様を見て、頬を染めて吐息を漏らしていきます。
かつてのわたしなら、その視線一つひとつに怯え、目を伏せていたでしょう。
でも今は、彼女たちの羨望の眼差しを真っ直ぐに受け止め、自然と背筋を伸ばして歩くことができます。
彼がわたしの腰を抱き寄せる強引な力強さを、あの端正な顔がわたしを欲して狂おしく歪む姿を、わたしだけが知っているのですから。
(この方は、わたしのもの。……そしてわたしも、彼のもの……)
胸を満たすのは、淑女にあるまじき傲慢で背徳的な優越感です。
けれど同時に、すれ違った美しい令嬢が彼に熱い視線を送った瞬間、胸の奥がぞわりと波立ちました。
(もし、また彼が遠ざかってしまったら――)
ふいに湧き上がった暗い不安に急き立てられるように、わたしは彼にすり寄り、その腕にきつくしがみつきました。
「シャルロット、あそこの店はどうだい? 焼きたての香りがここまで漂っている」
わたしが身を寄せたことに満足したのか、レインハルト様が機嫌良さそうに指差したのは、店先に色とりどりのリボンを飾った小さな菓子店でした。
香ばしいバターと、焼けた小麦の幸せな匂い。
わたしたちが店へ足を踏み入れると、ベルがチリンと可愛らしい音を立てます。
「いらっしゃいませ! おお、これはまた見事な美男美女の……!」
店主の感嘆の声に、レインハルト様は愛想笑い一つ浮かべず、ただ冷やりとした視線で周囲を牽制するように一瞥しました。
彼はわたしの好みを最優先するように棚を見つめています。
その背中は、見知らぬ他者の視線からわたしを完全に遮るように立っていました。
「クッキーをいただけますか? あの、アイシングで花が描かれたものを」
「かしこまりました。お熱いねぇ、お二人さん!」
店主が冷やかすようにクッキーを紙袋に詰め、わたしに手渡してくれます。
店を出てすぐ、レインハルト様が袋から一枚、小さな星型のクッキーを取り出し、わたしの口元へと運びました。
「……あ」
甘い砂糖の味。
けれど、それ以上に、わたしの唇に触れた彼の指先の熱が、舌先を焼きます。
彼はわたしがそれを咀嚼する様子を、ひどく飢えた猛獣のような、熱を孕んだ黄金の瞳でじっと見つめていました。
今すぐにでもこの場で喰い破られてしまいそうな、ギリギリの抑制がそこにはありました。
「甘い?」
「はい……とても。レインハルト様も、召し上がりますか?」
わたしが彼の真似をして、クッキーを差し出します。
すると彼はクッキーではなく、わたしの指ごと食むようにして口に含んだのです。
少しだけ鋭く歯が当たり、ちくりとした痛みにわたしは小さく肩を跳ねさせました。
「……ああ。君の香りが混ざって、酔うほどに甘いよ」
公共の場とは思えない、官能的な言葉。
彼の吐息が耳元を掠め、わたしは不意に身体の奥が疼くのを感じました。
思い出したように熱を帯びます。
わたしの肌から、自覚もなく、甘く濃密な気配が微かに滲み出し始めていました。
***
午後の陽光が少しずつ傾き始めた頃。
商店街を抜けた先に、色鮮やかな布でできた大きなテントが見えました。
『興行劇』の看板。
入り口の垂れ幕には「愛の悲喜劇――運命の巡り合わせ」と書かれています。
太鼓の音、呼び込みの役者、焼き栗の香ばしい匂い。
わたしの胸が高鳴ります。
「わあ……興行劇ですわ! あの、レインハルト様、入ってみてもいいですか?」
「劇?」
「はい! 旅芸人の方たちの……恋物語らしいです!」
「……君が行きたいなら」
わたしの好奇心に、彼は少しだけ躊躇するような素振りを見せました。
今の彼は、わたしを人混みに晒すことを極端に嫌っているようだったから。
けれど結局はわたしの願いに抗えないのです。
彼は小さくため息をつきながらも、わたしの腰を抱き寄せるようにしてテントの中へと導きました。
テントの中は外の光を遮った薄暗闇。
埃っぽい空気と、観客たちの体温、そしてどこか退廃的な熱気が混ざり合っていました。
わたしたちは客席へ通され、木の椅子に並んで座ります。
隣の席の若い男女がやけに距離が近い。
……なるほど、恋物語とはそういう集客装置なのですね。
レインハルト様がわたしの手を握り直しました。
わたしの心は、どこか誇らしくて、くすぐったい。
劇が始まり、やがて物語は佳境に入ります。
舞台の上では、男女の役者が引き裂かれた恋人の再会を演じていました。
恋人同士のすれ違い。嫉妬、誓い、涙。
そして――定番の、濃厚なラブシーン。
『ああ、君をもう二度と離さない。他の誰のものにもさせない――』
舞台上で、俳優がヒロインを抱き寄せ、甘い台詞を囁きます。
観客が「ひゅー!」と囃し立てました。
その瞬間。
わたしの脳裏に、昨夜の記憶が――熱を持ったまま蘇ったのです。
彼の腕の温度、荒い呼吸の音。名前を呼ばれるたびに胸の奥がほどけていく感覚。
恥ずかしいのに、幸せで。
幸せなのに、もっと欲しくなる、あの熱。
(……だめ。今ここで思い出したら……)
わたしは顔が火照るのを感じながら、必死に視線を舞台へ戻しました。
戻した、はずだったのです。
隣から、短い息を呑む音がしました。
「……シャル」
「はい?」
「……君、自分が今、どんな香りをさせているか分かっているのか……?」




