3_最強魔導師の休憩時間 シャルロットside
熱狂に包まれたコロシアムの喧騒から一歩退いた、静かで豪奢な貴賓用控室。
ふかふかの絨毯が敷かれ、上品な調度品で整えられたその部屋に、第一試合を終えたばかりのレインハルト様が戻ってきました。
「お疲れ様でした、レインハルト様!」
わたしが駆け寄ると、レインハルト様はいつものように優しく甘い微笑みを浮かべて、大きく腕を広げてくれます。
その広い胸に飛び込むと、ほんのりと滲んだ汗の匂いと、彼特有の清廉で圧倒的な魔力の香りがふわりと鼻をくすぐりました。
「ただいま、シャル。ちゃんと見ていてくれたかい?」
「ええ、もちろん! 一歩も動かずに相手チームを圧倒するなんて……!」
わたしは背伸びをして、持っていた絹のハンカチで彼の額に滲んだ汗をそっと拭います。
涼しい顔をしてはいますが、最強の魔導師とはいえ、あれだけの規模の魔法をフィールド全体に張り巡らせていたのです。
全く疲労がないわけではないはずです。
少しでも疲れが癒えるようにと丁寧に汗を拭き取っていると、不意に彼の大きな手がわたしの腰を引き寄せました。
「んっ……」
ちゅっ、と。
甘い、そして少しだけ扇情的なリップ音が部屋に響きます。
レインハルト様の形の良い唇が、わたしの唇に軽く、けれど確かな熱を帯びて重なったのです。
「あ、あのっ、レインハルト様……っ! 子どもたちの前ですのに……」
わたしが顔を真っ赤にして抗議すると、彼は悪びれる様子もなく金色の瞳を細めてわたしを見つめました。
「いいじゃないか。夫婦の愛情表現を見せるのも、情操教育の一環だよ。それに君があんまり愛らしい顔で僕の世話を焼くから、我慢できなかった」
「うわ……父上。もう邸で十分見てますので。時と場所を考えてほしいというか……」
「ママのおかお、まかっかー!」
「パパ、ママのことだいすきだね!」
長男のリオンが分厚い本で顔を隠しながら呆れたようにため息をつき、双子のアルテミスとサリエスがくすくすと笑い声を上げています。
幼い三つ子たちはよく分かっていないのか、無邪気にキャッキャと手を叩いていました。
子どもたちの視線を一身に浴びて、わたしは恥ずかしさで彼の胸元に顔を埋めるしかありません。
そんなわたしの斜め後ろで、キールが「クエッ」と短く鳴きました。
数か月前、公爵邸の中庭でわたしが拾った不思議な鳥です。
愛らしい姿をしていますが、その鳴き声を聞いた瞬間、レインハルト様の表情が少しだけ真剣なものに変わりました。
彼は子どもたちに聞こえないよう、わたしの耳元へと顔を寄せます。
「……シャル。前にも言ったが、その子……キールはおそらく魔獣グリフィンの幼体だ」
低く、少しだけ硬質な囁き声が耳をくすぐります。
「え……? ええ……分かっていますわ。でも、とてもおとなしいですし……」
「普段はおとなしくしているけれど、本来は魔界に生息する獰猛な魔獣なんだ。ひょっとしてだが……君の使い魔のつもりでいるのかもしれない。扱いには気をつけて」
「使い魔、ですか?」
「ああ。君のその特異な魔力に惹きつけられているんだろうね。万が一、君に危害を加えるような素振りを見せたら、僕がすぐに……」
「大丈夫です、レインハルト様」
わたしは彼の言葉を遮るように、キールの丸い頭を指先でそっと撫でました。
キールは気持ちよさそうに目を細め、わたしの指にすりすりと頬を寄せています。
「この子はとてもいい子ですもの。わたしを守ろうとしてくれているのだと思います。……だから、あまり怖い顔で睨まないであげてくださいね」
「……君がそう言うなら。でも、僕以外の『オス』が君の肌に直接触れてベタベタしているのは、たとえ魔獣の幼体でもあまりいい気はしないな」
レインハルト様は少しだけむっとしたように呟いて、そっぽを向くようにキールを軽く睨みました。
最強の魔導師が小さな鳥に本気で嫉妬するなんて、おかしいやら愛おしいやらで、わたしは思わずふふっと微笑んでしまいます。
しかし、そんな和やかな時間は長くは続きませんでした。
控室の扉がノックされ、先ほどフィールドで戦っていた部下の魔導師たちが少し強張った顔で入ってきたのです。
「閣下。次の対戦相手であるベルツ王国の最新データが上がってきました。……やはり、一筋縄ではいかないようです」
部下の方の言葉に、レインハルト様の顔から甘い夫の表情がスッと消え、冷徹な魔導師の顔へと切り替わりました。
「ベルツか。……あそこの魔法は学問や芸術というよりは純粋な殺戮の道具に近い。過酷な自然環境ゆえに実戦経験が豊富で、勝つためなら手段を選ばない荒くれ者が多いと聞く」
「はい。事前の情報によれば、彼らは魔導薬液を用いた人体強化や、非道な呪術も厭わないとか……。過去の親善試合でも、対戦相手が再起不能の重傷を負う事態が起きています。相手としては、非常に厄介かと」
その言葉に、わたしは思わず息を呑みました。
「レインハルト様……」
不安げに見上げるわたしに気づくと、彼はすぐに優しい顔に戻りました。
そしてわたしの肩を抱き寄せてくれます。
「心配いらないよ、シャル。ベルツとは4年前の戦で何度もやり合ったからね」
その力強い言葉と、わたしをすっぽりと包み込む温かい体温に、不安は少しだけ和らぎました。
けれど、なぜでしょう。
ベルツ王国という名前を聞いてから、胸の奥に小さな、冷たい棘が刺さったような嫌な予感が拭えません。
(どうか、何も起きませんように……)
わたしは、次なる戦いへ向かう愛する夫の背中にそっと顔を埋め、静かに祈るしかありませんでした。




