17_賢者の決壊、そして宿題
「た、体液……ですか?」
「唾液で構わない。さあ」
彼は震える手で、透明な試験管を差し出してきました。
わたしは戸惑いながらも協力しようとしましたが、緊張のせいで数滴しか取れません。
「……足りないな。最低でも十ミリリットルは必要だ」
「十ミリ!? そんな、すぐに出せる量ではありませんわ!」
「……もっと興奮すれば、出るのではないだろうか?」
「―ええっ? ……で、では…、レインハルト様。わたしを抱きしめてくださいまし。……そうすれば、きっと…」
わたしの無意識な誘惑に、彼は「くっ……」と呻きながらも、椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、わたしを背後から抱きしめました。
「これで……いいだろうか…?」
「はい……もっと…強く…」
耳元に、彼の熱い吐息がかかります。
吸い付くような、甘く切ない口付けが耳たぶに落とされた瞬間、わたしの肌から溢れる「蜜の香り」が爆発的に膨れ上がったようでした。
「あ、ぁ……っ」
「シャル……なんて、匂いを……っ。……っはぁ……はぁ…」
彼はわたしの肩に顔を埋め、理性を繋ぎ止めようと必死に呼吸を繰り返します。
「あ、あの…大丈夫ですか?あの…っ!」
「だ、大丈夫だ、引き続き…唾液のサンプルを採取して………はぁ、……」
「は、はい…!…」
わたしは必死で試験管を握りしめ、唾液を落としていきます。
しかし高身長な彼に羽交い絞めにされ、その上ガタガタと震えられると、狙いが逸れそうになります。
「レインハルトさま、もう少し…えっと、そうですわ、落ち着きましょう。ほら…」
背後の彼に向かって上体を捻り、目元から頬下まで撫でて、小さい子を諭すように言ったつもりでした。
けれど、皮肉にもその「落ち着かせる」のための愛撫が、彼の脳髄を焼き切る最後の一撃となりました。
「………く……っ…」
「レインハルト、様…?」
「……はぁ……はぁ…、…」
すう、と彼の瞳から光が消えたような気がしました。
魔力の圧が室内を歪め、空気が冷える。
一瞬の静寂。
そして、息を奪うほどの口付け。
試験管のことなど、学術的な分析のことなど、すべてが茜色の夕闇に溶けて消えていきました。
「…………っ!…」
数分後。
弾かれたように唇を引き剥がしたのは、レインハルト様の方でした。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ! 僕は、僕はまた……!!」
彼は真っ赤な顔で絶望に顔を歪めると、机の上に置いてあった分厚い魔導書――『高等魔導理論・実践編』をひっつかみ、自分の頭を思い切り殴りつけました。
――ゴンッ!!
凄まじい音が静かな研究室に響き渡ります。
当たり所が悪く、僅かに皮膚が切れてしまったようで、つうっ…、と血が流れている。
「レ、レインハルト様あぁぁ!? ご自分の頭を魔導書で殴るなんて!血!血っ…血がぁっ…!!」
「……はあっ、はあっ…はぁっ…。こうでもしないと、君を今すぐこの机の上で押し倒して、研究どころではない事態にしてしまいそうなんだ……っ!」
肩で激しく息をする彼の黄金の瞳は、いまだに昏い熱を孕んだまま。
彼は床に転がった試験管を拾い上げると、わたしの口内の唾液がわたしのものと彼自身のものとで混ざり合ってしまったのを見て、深いため息をつきました。
「……検体が不純物で使い物にならなくなった。……これを持って帰ってくれ、シャルロット」
彼は、洗浄済みの新しい試験管をわたしの手に握らせました。
「自宅で……一人で、リラックスしている時に、これを満たしてきてほしい。明日、必ず僕に提出するように。いいね?」
「あ……はい。努力いたしますわ」
「……あぁ、もう。今日は早く帰るんだ。これ以上君がここにいたら、僕は魔導書で自分の頭を叩き割る羽目になる」
彼は顔を覆いながら、背を向けました。
わたしは空の試験管を胸に抱き、少しだけ後ろ髪を引かれる思いで研究室を後にしました。
……明日、彼に「検体」を渡す時。
また彼を困らせてしまうかしら…。
そんな不謹慎な期待を胸に、わたしは茜色の廊下を、少しだけ浮かれた足取りで歩き出すのでした。




