番外編_パパの敗北 リオンside
我がヴァルテンベルク公爵邸の歴史において、これほどまでに平穏で、そして同時に異常な三日間はなかったと断言できる。
事の始まりは十一歳になった僕の、ちょっとした観察だった。
三つ子の育児に追われているというのもあるが、それ以上に問題なのは父上だ。
相変わらず「魔力供給」だの「浄化」だのと称して、片時も母上の傍から離れようとしない。
あの過剰なまでの執着とスキンシップのせいで、僕の愛する母上の目元に微かな疲労の陰りが見えたのだ。
「……諸君、作戦開始だ」
僕は歩き始めたばかりの三つ子から、ませた盛りの双子まで、総勢八人の弟妹たちを前に号令をかけた。
結成されたのは『母上の休息を守る会』。
その目的はただ一つ。
父上という名の強欲で理不尽な獣から、母上を物理的かつ魔導的に完全に隔離することだ。
***
「……リオン。これは何の冗談かな?」
主寝室の前に立った父上は冷ややかな、けれど余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
しかし、そんな脅しに屈する僕ではない。
扉の前には僕が緻密に計算して描いた複雑な幾何学模様の魔法陣が光り、八人の子供たちが鉄壁のバリケードのように立ちふさがっている。
「父上、これは冗談ではありません。母上には『完全なる休息』が必要です。今は僕と双子がかけた【超・快眠術式】により、ぐっすりと就寝中です。今日から三日間、この部屋への父上の立ち入り、および母上への一切の接触を禁じます」
「ははは! 君たちが張った程度の結界を、この僕が破れないとでも思うのかい?」
父上が指先を鳴らし、圧倒的な魔力を練り上げようとした瞬間、僕は不敵に笑ってみせた。
「無駄ですよ。これは僕が特別に構築した【父上専用・精神干渉結界:シャルの微笑み(偽)】です。父上の『母上に嫌われたくない』という最大の防衛本能と連動しています。強引に突破しようとすれば、邸中に『レインハルト様、大嫌い』という母上の声がエンドレスで響き渡るように設定しました」
「…………っ!?」
王国最強の魔導師が、かつてないほど激しく動揺し、目を見開いた。
彼は結界に向けた手を、まるで焼けた鉄にでも触れたかのように慌てて引っ込めた。
「くっ……。まあいい。一晩くらいなら、僕も大人の余裕を見せてやろう……」
負け惜しみを言って踵を返す父上の背中を見送りながら、僕は心の中でため息をついた。
この時、父上はまだ理解していなかったのだ。
母上のいない一晩が、自分の精神にとってどれほどの地獄であるかを。
***
「シャル……。シャル、聞こえるかい? 扉の隙間から、せめて髪の毛一本分でいいから魔力を送ってくれないか……」
二日目の昼。
廊下には、昨日までの公爵としての威厳を完全に喪失し、扉に額を押し付けてブツブツと虚ろな声で独り言を漏らす父上の姿があった。
「父上、見苦しいですよ。あちらでリリアンたちが遊んでほしいそうです」
「リオン……頼む、一瞬でいいんだ。彼女の匂いを嗅がないと、僕の肺が酸素を拒絶し始めているんだ……」
「却下です。母上は今、三つ子たちから解放されて、ぐっすりとお眠りです。邪魔しないでください」
僕が冷たくあしらうと、父上は廊下の壁に爪でカリカリと「シャル……シャル……」と文字を刻み始めた。
彼の周囲にはどろりとした淀んだ負の魔力が渦巻いていて、邸の使用人たちは「閣下が怨霊化している」と怯えきって、この廊下に一切近づかなくなってしまった。
***
三日目の朝。
僕が廊下に出ると、そこに転がっていたのは、もはや王国最強の魔導師の成れの果て――白く燃え尽きた灰のような、哀れな何かだった。
「……リオン……。交渉だ……」
地面を這い、僕の足首をガシッと掴んだ父上の顔は、たった二日で数十年ほど老け込んだようにやつれ果てていた。
目の下にはくっきりと隈ができ、頬はこけている。
「交渉? もう少しで約束の三日間ですよ」
「待てない……。一分、一秒が、僕の魂を削っている……。……提示する。毎月のお小遣い百倍、および公爵家にある全魔導書の閲覧権、さらに今後一年間の『おやつ増量許可証』だ。これらすべてを君たちに譲渡する。……だから、開けてくれ……。シャルに……シャルを僕の中に補充させてくれ……っ!」
「…………」
僕は、背後に控える七人の弟妹たちと顔を見合わせた。
「お小遣い百倍」や「おやつ増量」という甘美な言葉の重みに、双子のアルテミスとサリエスが露骨に目を輝かせている。
僕としても、全魔導書の閲覧権は喉から手が出るほど欲しい。
それに何より、これ以上父上が怨霊化し続けるのは、目覚めた時の母上の精神衛生に悪影響だ。
「……成立です。ただし、一時間だけですよ」
僕が結界を解除した瞬間だった。
「シャアアアアアル!!」という魔獣のような咆哮と共に、父上は光の速さで室内へと飛び込んでいった。
***
一時間後。
たっぷりと休息を取り、ようやく目覚めた母上が、不思議そうに僕たちに尋ねた。
「あら……。リオン、何だかお家の中が静かだったけれど、何かあったの? ……それより、レインハルト様がさっきからわたしの足首にしがみついて離れないのだけれど……」
ベッドの端には、母上の膝に顔を埋め、絶対に離さないという鋼の意志を込めてしがみつく、心底幸せそうな(けれどボロボロの)父上の姿があった。
「いいえ、母上。……父上が、少しだけ『大人としての試練』に失敗しただけですよ」
僕はまんまと手に入れた戦利品の目録や許可証を手に、フッと大人びた笑みを浮かべてみせた。
こうして、公爵邸に再び賑やかな(そして母上への偏愛に満ちた)日常が戻ってきた。
父上は、失った財産や権限のことなど一ミリも気にする様子はなく、「やはりシャルのいない世界など滅びた方がマシだ」とぶつぶつ呟きながら、これまで以上に強固な――そして今度は僕たち子供でさえも容易に入れない「二人だけの檻」を、せっせと構築し始めている。
……本当に、呆れるほど母上のことしか頭にない父上だ。
けれど、母上が嬉しそうに微笑んでいるから、今回だけは僕たちも大目に見てやるとしよう。




