番外編_ピンク色の霧の魔法
ヴァルテンベルク公爵邸の平和な朝は、一本の小さな水晶薬瓶によってかつてない混沌へと叩き落とされることとなりました。
事の始まりはレインハルト様が「研究資料」として魔術師街の老舗薬店から持ち帰った、最新型の魔法薬でした。
その名は『アモリス・アンプリフィカティオ(至高の情愛増幅剤)』。
本来は倦怠期の夫婦が数滴を薄めて使用することで、初々しい恋心を呼び覚ますという極めて平和的な(そして少々お節介な)効能を持つはずのものでした。
「シャル、これは非常に興味深い術式で作られている。愛という抽象的な概念を魔力的に増幅・固定する成分が配合されているんだ。……まあ、僕たちには必要のないものだがね。これ以上愛が深まったら、僕は君を飲み込んでしまうかもしれない」
レインハルト様はそう言って、冗談めかしてわたしの指先にキスを贈りました。
彼はその薬瓶を書斎の棚に置いたつもりだったのですが……運命の悪戯か、あるいは子どもたちの誰かがおもちゃにしてしまったのか。
あろうことかその原液たっぷりの薬瓶は、リビングに設置された最新式の「広域自動魔導加湿器」のタンクの中へと、まるごとポチャンと落とされてしまったのです。
「あら……。なんだか今日の加湿器、随分とピンク色の霧が出ますのね」
わたしが首を傾げたときには、すでに手遅れでした。
加湿器から噴き出した薔薇の香りに似た濃厚で甘いミストは、魔法の風に乗って瞬く間に邸中に拡散されていったのです。
最初に異変が起きたのは、子供たちでした。
「母上! 母上、大好きです! ああ、なんてお美しいんだ、僕の母上は!」
いつもは冷静沈着で、父上の過保護を冷めた目で見ていたリオンが突然本を投げ捨ててわたしに抱きついてきました。
その瞳はハート型に潤み、頬は林檎のように真っ赤です。
「お母様! お母様の隣はサリエスのものだよ!」
「ううん、アルテミスのだよ! お母様、一生離さないで!」
双子たちがわたしの左右の脚にしがみつき、リリアンとイリス、そして三つ子たちまでもが、わたしを「世界で一番甘いお菓子」か何かのように見なして群がってきました。
「まあ、まあ……! みんなどうしたの? 嬉しいけれど、そんなに引っ張っては……っ」
わたしは八人の子供たちの「愛の猛攻」に押し潰されそうになりながら、助けを求めて廊下へと這い出しました。
廊下に出ると、そこにはさらなる異常事態が待っていました。
「閣下! レインハルト・イル・ヴァルテンベルク閣下! 万歳! 万歳!!」
「ああ、閣下! あなた様こそ我らの太陽! その靴を舐めさせてください!」
普段は規律正しいはずの使用人たちが、一列に並んでレインハルト様の書斎に向かって跪き、熱狂的なシュプレヒコールを上げていたのです。
執事のセバスチャンまでもが感極まって「閣下のいらっしゃるこの時代に生まれた奇跡に感謝を!」と号泣しています。
この魔法薬は吸い込んだ者が「今、最も意識している対象」への愛情を、理性というブレーキを破壊して増幅させる性質があったのです。
子供たちにとっては、慈愛の象徴である「母」。
使用人たちにとっては、畏敬の対象である「閣下」。
そして――――。
「……シャ……ル……。……僕の、……シャル……ッ!!」
書斎の扉が凄まじい魔力の奔流によって粉砕されました。
そこに立っていたのはいつもの怜悧な面影など微塵も残っていない、情欲と独占欲の権化と化したレインハルト様でした。
「あなた……!? その……お洋服は……?」
わたしは絶句しました。
彼は「衣服など僕と君の魂の触れ合いを邪魔する無益な布切れに過ぎない!」とでも言わんばかりに公爵としての正装をすべて脱ぎ捨て、一糸纏わぬ全裸の状態で立っていたのです。
彼の周囲には増幅された魔力が黄金の炎となって揺らめき、その中心で十倍速で膨れ上がった彼の「愛」が、今にもわたしを抱きしめんばかりに猛り狂っていました。
「シャル……。愛している……! 好きだ、大好きだ! 君のすべてを、今すぐ僕の中に閉じ込めなければならない! 細胞の一つ一つ、原子の極致まで、僕という存在を君に教え込むんだ!!」
「ひ、ひぃっ……! 来ないで、レインハルト様! 子供たちの前ですわよ!!」
「子供たち?……ああ、あの子たちも僕と君の愛の結晶だ! だが今は邪魔だ! どけ、リオン! どくんだ、三つ子たち! その女性は、僕が、僕のためだけの女神なんだ!!」
レインハルト様は全裸で空中を浮遊しながら、驚異的な速度でわたしに向かって突進してきました。
「――きゃああああああっ!!」
わたしはドレスの裾を翻し、邸の廊下を全力で逃げ出しました。
背後からは全裸で黄金のオーラを纏い、「シャルー!! 逃げても無駄だよ、僕の愛の空間転移からは逃げられないよー!!」と叫びながら追いかけてくる夫。
邸中を駆け巡る、愛の鬼ごっこ。
途中で「閣下万歳!」と叫ぶ使用人たちがレインハルト様の足首にしがみつこうとして蹴散らされ、子供たちが「ママをいじめないで!」と魔法の枕を投げつける中、わたしたちは公爵邸の広大な庭園へと飛び出しました。
結局、騒動が収まったのは、リオンが正気に戻り(彼は途中で『母上への愛は、父上のこの醜態を止めることで示すべきだ』という境地に達したようです)、加湿器を破壊して中和魔法を散布した一時間後のことでした。
邸の全職員が猛烈な羞恥心で顔を伏せ、子供たちが「……お父様、あれは引くわ」と冷ややかな視線を送る中。
ようやく正気に戻り、急いでガウンを羽織ったレインハルト様は、真っ赤な顔をしてわたしの前に膝をつきました。
「……シャル。すまない。……本当に、すまない。……研究資料の管理を誤るなんて、魔導師として失格だ……」
「いいえ、レインハルト様……。わたし、あなたの愛が増幅されるとあんなにアグレッシブになるのだと知って、少しだけ……感心いたしましたわ」
わたしがクスリと笑うとレインハルト様は顔を上げ、少しだけ以前の「支配者」の瞳を取り戻して微笑みました。
「……そうか。なら、薬の効果が切れた『今』の僕の愛が、どれほど濃密か……改めて教えてあげないといけないね。……今度は、薬の力なしで、君を泣かせてみせるよ」
「まあ……! お懲りになりませんのね」
その夜。
薬の影響が完全に抜けたはずの主寝室では、昼間の騒動を埋め合わせるかのような、いつにも増して激しく、執拗な「愛の浄化」が行われました。




