エピローグ_幸せなまどろみ
窓の外には王都の喧騒を遠くに感じさせる穏やかな午後の光が溢れている。
けれど豪華な刺繍が施された長椅子に身を横たえるわたしの視界はどこか霞み、意識は泥のように重く沈んでいました。
三つ子の天使たち――カトレア、ヴィオラ、そしてヴァレリアン。
八か月という早すぎる産声を上げたあの子たちは、しかし驚くほど健やかに成長していました。
その姿はわたしと同じ朝靄のような薄紫色の髪と、透き通るような白磁の肌。
そしてその瞳だけは、父であるレインハルト様の気高き黄金を宿していました。
「……小さなシャルロットが三人。これ以上の幸福がこの世にあるだろうか」
産まれたばかりのあの子たちを抱いたとき、レインハルト様はそう言って、狂おしいほどの歓喜を瞳に湛えておいででした。
けれど、三人の新しい命を育む代償はわたしの想像を遥かに超えるものでした。
産褥期を過ぎたというのに連日のように貧血でくらくらと体調が安定せず、今までの産後で最も過酷な予後となっていました。
三人同時の授乳、小さく生まれてしまったあの子たちのために栄養と免疫が得られる初乳だけでも、と頑張りすぎたのかもしれません。
それはわたしの身体を流れる血液がそのまま白い雫となって、一滴残らず抜き取られていくような感覚でした。
「ん……ふぅ……」
一人に与え終えれば次の一人が泣き出し、最後の一人を満たす頃にはわたしの指先は氷のように冷たくなり、思考は真っ白に染まってしまいます。
あの子たちが満足して乳母たちに預けられた後。
わたしは着崩れたドレスを整える気力さえなく、ただ長椅子にもたれかかっていました。
(……ああ。レインハルト様……)
心の中で夫の名を呼びながら、わたしは深い眠りの底へと吸い込まれるように落ちていきました。
***
夢の中の景色はどこまでも澄み渡る銀色の世界でした。
クリスタルのような花が咲き乱れる庭園の中、わたしは一人立ち尽くしていました。
すると、向こう側から一人の青年が歩いてくるのが見えました。
(……リオン?)
十歳の面影を残しながらも、その体躯は逞しく成長し、涼しげな目元は若き日のレインハルト様に驚くほど似ています。
彼は優しく微笑み、わたしの手を取りました。
「母上、こちらへ。皆、待っていますよ」
彼に導かれるまま光の回廊を進んでいくと、そこには成長した七人の子供たちが誇らしげに、そして愛おしげにわたしを出迎えてくれました。
わたしが産み落とした、愛の結晶たち。
――そして、その最奥。
背を向けて立っていた長身で艶やかな黒髪を持つ美丈夫が、ゆっくりとこちらに振り返りました。
その衣服は、結婚式で彼が来ていた正装そのままの姿。
わたしが赤ちゃんだったリオンを胸に抱き、彼のもとに歩み寄ろうとした、あの時の姿そのものだったのです。
「――シャルロット。やっと来たね」
「……レインハルト、様……っ!」
――やっと逢えた。
魂が震えるような、根源的な喜びがわたしを貫きました。
涙がぼろぼろと零れて止められない。
どうしてでしょう。
もうずっとずっと逢えていなかったような気がするのです。
ずっと探していた魂の片割れ。
彼はわたしをその強靭な腕で抱きしめ、わたしの薄紫色の髪に、額に、幾度も慈しむような口づけを落とします。
その腕の熱、その懐かしい匂い。
金色の光に包まれていく感覚。
死の間際に見るような、溶けて消えてしまいそうなほどの美しく、優しい世界。
***
わたしはこの上ない幸福感に包まれながら、深い安らぎの中で微睡んでいました。
「……母上。――母上、もう大丈夫ですよ」
耳元で、リオンの幼い、けれど凛とした声が聞こえました。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには夢の中の青年ではなく、十歳の、懸命な表情をしたリオンがわたしの額に手をかざしていました。
「……リオン? あなただったの……。ありがとう、少し楽になったわ」
リオンの指先からは黄金色の微かな光が溢れ出し、わたくしの全身を包み込んでいました。
それは父であるレインハルト様の放つ、すべてを焼き尽くすような濃厚な魔力とは異なる、柔らかな春の陽光のような、穏やかで清らかな癒やしの術。
傍らを見ると、レインハルト様が腕を組み、静かな眼差しでその様子を見守っていました。
「リオンがやりたいと言うから、やらせてみていたんだ。……案外、悪くない。僕の血を受け継いでいるだけのことはある」
「そう……。嬉しいわ。リオン、本当に優しい子に成長したわね」
わたしが微笑むとリオンは照れ臭そうに俯き、術を解きました。
リオンの癒やしは、わたしの「心」を温かく満たしてくれました。
愛する息子がわたしを助けようと必死に魔力を練ってくれた……その事実だけで、母親としての充足感が胸いっぱいに広がります。
けれど――。
わたしの内側、その奥底にある「淫魔の渇き」は、冷酷なまでに真実を告げていました。
リオンの魔法はあくまで表面的な疲労を取り去るもの。
わたしの枯渇した魔力回路、そして三人の赤子に吸い尽くされた「生命の根源」を完全に修復するには、リオンの魔法はあまりに純粋で、優しすぎたのです。
淫魔の血が真に求めているもの。
それはレインハルト様が放つ極上の魔力と精気。
それこそが、わたしの身体を一瞬で「成体」へと回帰させ、奪われた生命を何倍にもして埋め戻す、唯一にして最強の劇薬。
わたしはベッドの脇に立つレインハルト様を見上げました。
彼は成長する息子を誇らしげに見つめる「父」の顔を崩しませんでしたが、その金色の瞳がわたしと合った瞬間。
一瞬だけ、その奥に潜む「主人」の顔を覗かせました。
(……後でね、シャル。……君の本当の回復は、僕にしかできないのだから)
声に出さずとも、その視線が、その放つ魔力の揺らぎが、わたしにそう囁きかけていました。
彼は知っているのです。
リオンの魔法ではわたしの本当の飢餓を消し去ることはできないことを。
そしてわたし自身もまた、彼の「暴力的なまでの癒やし」を魂の底から待ちわびていることを。
「さあリオン。母上はもう大丈夫だ。君も妹たちのところへ行きなさい」
「はい、父上。……母上、また後でお顔を見に来ますね」
リオンが部屋を出て行き、扉が静かに閉まる。
夕闇が部屋に忍び寄り、メイドたちが三つ子の夜の準備を始める頃。
レインハルト様はわたしの隣に腰を下ろし、まだ少し冷たいわたしの手を自らの熱い手のひらで包み込みました。
「……リオンの魔法も、いい気休めにはなっただろう? だが本番はこれからだ」
彼はわたしの耳元に唇を寄せ、じりじりと焼けるような熱を帯びた声で囁きました。
「そろそろ体の方も癒えたと言っていたし、……今夜は久方ぶりに君を抱きたい。……君が二度と、あんなに青白い顔で眠らなくて済むようにね」
「……もう、……手加減してくださいまし……」
わたしの身体はその言葉だけで産後とは思えないほどの熱を帯びていく。
わたしは彼の手を引き寄せ、その手のひらに甘えるように頬を寄せました。
八人の子供たちに囲まれた賑やかで幸せな公爵邸。
けれどその中心にある主寝室は今夜もまた、誰にも踏み込めない背徳と情愛の深淵へと、深く、深く沈んでいくのでした。
エピローグまでお読みいただき、ありがとうございました。
明日からは番外編の公開となっています。
引き続き、黄金の檻の世界をお楽しみください。




