42_幸福な檻
出産から三週間。
死の淵を彷徨ったとは思えないほど、わたしの身体は劇的な回復を遂げていました。
あの日、薄れゆく意識の中で、レインハルト様が膨大な精気と魔力をのせた息吹を吹き込んでくださった記憶が微かに残っています。
彼の強大で深く甘い魔力に全身を満たされるたび、わたしの身体はまるで生まれ変わったように活力を取り戻していくのです。
出産で傷ついた下腹部でさえ、その力を糧にして自然治癒を加速度的に早めているようでした。
「シャル、足元に気をつけて。少しでもめまいがしたらすぐに言うんだよ」
「もう、レインハルト様ったら。いくら何でも大袈裟ですわ。少しは自分の足で歩かないと本当に歩き方を忘れてしまいます」
今日は久しぶりにベッドから降りて家族揃っての夕食の席につくことが許されました。
ダイニングへ向かう廊下から、レインハルト様はわたしの腰を抱き寄せ、ほとんど体重を預けさせるような過保護ぶりでエスコートしてくださいます。
久しぶりのダイニングテーブルには、色とりどりの華やかな料理が並べられ、子どもたちの弾けるような笑顔が揃っていました。
「お母様! ここ、お母様の席!」
「はやくはやく! 今日はお祝いのごちそうだよ!」
双子のサリエスとアルテミスが、わたしの隣の席をバンバンと叩いて急かします。
その隣でリリアンとイリスも嬉しそうに花のような笑みを浮かべていました。
席に着くなり、レインハルト様はご自分の食事そっちのけでわたしの世話を焼き始めました。
ごく自然な動作でわたしの皿の上の柔らかな仔牛の肉を小さく切り分け、あろうことかフォークに刺して、わたしの口元へと運んできたのです。
「さあ、シャル。あーんして。ちゃんと栄養をつけないとね」
「れ、レインハルト様……っ。子どもたちが見ていますし、わたし、自分で食べられますわ……!」
顔を真っ赤にして抗議するものの、彼はまったく悪びれる様子もなく、美しい顔に甘い微笑みを浮かべたままです。
「いいじゃないか。愛する妻に食事を食べさせたいと思うのは夫として当然の欲求だ。夫婦の愛情深い姿を見せるのも、彼らにとっては立派な教育の一環だよ」
その蕩けるような甘い眼差しと堂々たる開き直りに、サリエスとアルテミスは「またお父様がいちゃいちゃしてるー!」とクスクス笑い声を上げています。
そんな和やかな、いつもの家族の風景。
けれど、ふと、長男のリオンだけがひどく静かなことに気がつきました。
十歳という年齢には似合わないほど大人びている彼ですが、今日は殊更に口数が少ないのです。
その黄金の瞳はじっと手元のスープ皿を見つめながらも、時折、斜め向かいに座る父親――レインハルト様の方へと向けられていました。
そこには以前のような無邪気な尊敬や甘えの感情は薄いようでした。
代わりに何かひどく複雑で、探るような、警戒するような冷たい色が混ざっているように見えました。
彼の手元を見ると、フォークを握る手が微かにこわばっているようにも感じます。
(……リオン? どうしたのかしら。少し、痩せた?)
三つ子の出産の時、彼には随分と無理をさせてしまったわ。
あの時の心労が、まだ抜けていないのかもしれない。
わたしが心配になって声をかけようとした、その時でした。
リオンがふと顔を上げ、レインハルト様と真っ向から視線を交わしました。
ほんの一瞬の出来事。
言葉による会話は何一つありません。
けれど声に出さない男同士の、ひどく冷たく張り詰めた刃のようなものが、食卓の上で激しく交差した気がしたのです。
息が詰まるような、見えない魔力の圧迫感。
わたしが思わず息を呑んだ次の瞬間、レインハルト様はふんわりと、この世の何よりも優しい完璧な父親の顔で微笑み返しました。
「どうかしたかい、リオン。今日のスープはお気に召さなかったかな? それとも、弟と妹たちが産まれて、少し寂しい思いをさせてしまったかな」
その声音には微塵の棘もなく、ただ純粋な慈愛だけが込められていました。
リオンはじっと父の顔を見つめ返した後、ゆっくりと瞬きをして、何事もなかったかのように視線を落としました。
「……いえ。とても美味しいです、父上。弟と妹たちの顔を見に行くのも、毎日楽しみにしています」
気のせいでしょうか。
二人の間にはわたしには絶対に立ち入れない、何か深く暗い秘密が横たわっているような気がしてならないのです。
夫と息子の間に漂う、この微かな断絶感は何なのでしょうか。
「ねえ、あなた……リオンと何かあったのですか? 少し、様子がおかしいような……」
小声で尋ねると、レインハルト様はそっとわたしの肩を抱き寄せ、こめかみに軽くキスを落としました。
「何もないよ、シャル。あの子は賢いからね。これから長男としてどう振る舞うべきか、色々と難しいことを考えているだけさ。……君は何も心配しなくていい」
深く甘い声でそう囁かれると、不思議と追求しようとする思考がふんわりと溶けていってしまうのです。
(……そうね。レインハルト様がいるのだから、何も心配はいらないわ)
疑念を手放し、夫の温もりに身を委ねようとしたその時、遠くの別室から「ふえぇえん、ふえぇえん……」という元気な泣き声が重なって聞こえてきました。
三つ子たちのうちの誰かが目を覚まし、それに釣られて他の子も泣き出したのです。
「あら、大変……!」
わたしが立ち上がろうとするより早く、レインハルト様がわたしを横抱きにして軽々と抱き上げました。
「君は急がなくていい。一緒に行こうか」
子どもたちが「赤ちゃん泣いてる!」「僕があやしてあげる!」と楽しそうに後をついてきます。
騒がしくて、賑やかで、暖かくて、底なしに甘い空間。
この美しい公爵邸は、間違いなく世界で一番幸福な場所です。
すべての不都合な真実は、甘い愛の言葉と魔法の底へと深く、深く沈められ、見えなくなっています。
何も知らないわたしは、ただ愛する夫の温かい胸の中で、この美しく設えられた『幸福な檻』の心地よさに微睡み続けていました。




