40_禁書庫の少年 リオンside
本に囲まれた静寂の中、僕は自分の心音を聞いていた。
ヴァルテンベルク公爵邸が誇る膨大な書庫。
その最奥にある禁書庫は日中でも薄暗く、古びた羊皮紙と沈香の匂いが肺の奥にまで染み付くような場所だ。
僕は数日前からこの場所に籠もり、ある「疑惑」の答えを探していた。
三つ子の出産の時、あの産室で目撃した光景が脳裏に焼き付いて離れない。
父上の生命エネルギーを貪り、一瞬で人外の美しさを取り戻した母上の姿。
そして産室の扉が開け放たれた時、倒れこむようにして意識を失った父上は丸5日間、目を覚ますことはなかった。
母上も、ベッドから起き上がることが出来ずに寝たきりだったところ、父上は身体を引き摺りながらも母上を抱きしめに赴き、邸内の使用人たちの涙を誘った。
それから一週間、我が家は徐々に以前の落ち着きを取り戻してきていた。
(母上は、本当に人ではないのかもしれない……)
その疑念を打ち消したくて、あるいは肯定する勇気が欲しくて、僕は魔導の歴史を、禁忌の系譜を読み漁った。
だが、どれだけ分厚い本を開いても答えには辿り着けない。
母上は、三つ子を産んで死の淵を彷徨っていたのが嘘のように、すっかり血色を取り戻しベッドの上で穏やかに微笑むことができるまでに回復していた。
その奇跡的な回復ぶりを邸の者たちは「旦那様の膨大な魔力による献身的な治療の賜物」だと称賛して疑わない。
けれど、僕だけは知っていた。
あれは「治療」などという美しいものではない。
母上が自ら、父上の命を直接貪り喰って得た活力なのだと。
母上のあの妖しく光る緋色の瞳。
獣のように父上の背に絡みついた白い腕。
魔物のような捕食の光景が目を閉じるたびに脳裏にフラッシュバックして、僕は夜もまともに眠れなくなっていた。
母上は、ただの病弱な人間ではないのではないか。
その正体を知らなければ、僕は自分の足元が崩れ落ちていくような恐怖で狂ってしまいそうだった。
不意に、棚の一角に違和感を覚えた。
指先で背表紙をなぞると微かな魔力の脈動を感じる。
特定の術式を流し込むと、ガチリ、と重厚な歯車が噛み合う音が響き、目の前の書棚がゆっくりと回転を始めた。
――隠し扉だ。
奥へと続く暗い小部屋。
恐る恐る足を踏み入れると、ひんやりとした水の膜を通り抜けるような感覚があった。
父上が張った結界だ。
しまった、と思った瞬間にはもう、背後から静かな声が響いていた。
「――リオン。その先は、君にはまだ早いよ」
心臓が跳ねた。
振り返ると、書棚にもたれかかるようにして、父上が立っていた。
いつからそこにいたのか。
倒れ伏してから回復したとはいえ、全快にはまだほど遠いはずなのに。
涼しげな目元には余裕の笑みが湛えられ、僕を完全に射すくめている。
世間では美丈夫と名高いその立ち姿、しかし今の僕にとってはなにかとてつもなく恐ろしいものに感じられた。
「ごめんなさい……」
恐怖を押し殺し、表情だけでも平静を保つ。
絞り出すような僕の声に、父上はふっと息を吐いた。
「いや。使用人が入り込まないようにかけていた結界だったからね。僕の血を色濃く受け継ぐ君には少し脆弱だったようだ。……かけ直しておかなければ。ふう……」
父上の態度は驚くほど穏やかだった。
けれどその背後にある暗闇が、彼が隠し持つ世界の深さを物語っているようで、僕は拳を握りしめた。
「あ、あの……父上。母上は……その、人間なのですか……?」
聞いてはいけない。
そう本能が警告していたけれど、一度口に出した言葉はもう戻せない。
心臓が痛いほどに脈打つ。
「母上が、なんだい」
父上はニヤリと笑い、僕の答えを急かすように首を傾げた。
その黄金の瞳に見据えられ、喉がカラカラに乾いていくのを感じる。
それでも僕は、意を決して言葉を紡いだ。
「あの日……三つ子が産まれた日、僕は見てしまったんです。扉の隙間から……」
「見た? ……何を?」
「父上が、母上に口づけをした時……母上の腕が、父上の背中に絡みついて……まるで、獲物を逃がさない蜘蛛みたいに……!」
思い出すだけで全身に鳥肌が立つ。
僕は震える声で、必死に訴えかけた。
「父上の金色の魔力が、命そのものが、母上に吸い込まれていくのを見ました。母上の瞳は、赤く光っていた……! あれは、ただの治療なんかじゃない。母上は、父上の命を『食べて』いたんじゃないですか……!?」
一息に吐き出した言葉が、禁書庫の冷たい空気に吸い込まれていく。
父上から激しい怒りを向けられることを覚悟して、僕はギュッと目を瞑った。
しかし、予想に反して頭上から降ってきたのはひどく甘く、くぐもったような笑い声だった。
「クックッ……、そんな風に見えたかい? リオン、君は本当に賢い子だ。そしてよく見ている」
恐る恐る目を開けると、父上は少しも慌てることなく、それどころかどこか楽しげな様子で僕を見下ろしていた。
「あんなに殺気を含ませてまで全員を部屋から追い出したというのにね。君の好奇心は少し抑えるべきだとも思うけれど」
「母上が死んでしまうのではないかと心配で……!!」
「……フッ。まあいいさ。ただし代償は支払ってもらおうか、普段の魔導の勉強に加え体力向上の訓練も追加だ」
「父上……っ! ……否定、しないのですか? やっぱり母上は……化け物、なんですか……?」
――ピキリ。
僕がその言葉を口にした瞬間、禁書庫の空気が凍りついた。
父上の纏う空気が一変し、息が詰まるほどの凄まじい殺意が僕の全身を串刺しにした。
「言葉には気をつけるんだ、リオン」




