39_産声と捕食 リオンside
王宮から父の転移門で僕たちが公爵邸主寝室に辿り着いた時、分厚い扉の向こうから三つの元気な産声が響き渡った。
「ふぎゃあ、ふぎゃあ……!」
立て続けに上がる力強くも愛らしい泣き声。
僕と父は駆け足で産室として準備していた別室へと向かった。
急ぎ駆けつけた多数の使用人たちと侍女のアンナが慌ただしく出入りする隙間から、血に濡れた小さな赤ん坊たちが湯浴みをさせられているのが見えた。
女の子がふたりに、男の子がひとり。
三つ子という過酷な状況にもかかわらず、どの子も母上と同じ美しい薄紫色の産毛を生やし、その小さな瞳の奥には父上譲りの黄金色の光を確かに宿していた。
――無事に産まれたのだ。
僕は張り詰めていた糸が切れその場にへたり込みそうになった。
しかし喜びの空気は一瞬にして凍りついた。
「だ、駄目です、奥様の脈が……!」
「出血が止まらない……! 呼吸も微弱です、このままでは奥様が……!」
使用人たちの悲鳴のような声が響いた。
三つ子という命を産み落とした代償として、母上の細い身体は完全に限界を迎え、命の灯火が今にも消えようとしていたのだ。
「――全員、今すぐ部屋から出ろッ!!」
凄まじい魔力の圧を伴った、父上の怒声が寝室に轟いた。
それは戦場での指揮官としての冷徹な声でも、優しい父親の声でもない。
己の半身を失う恐怖に駆られた、一人の狂える魔導師の絶叫だった。
「しかし閣下、奥様の処置が……!」と食い下がる使用人たちを父上は無造作に魔力で弾き飛ばし、無理やり部屋から追い出した。
アンナたち侍女も赤ん坊たちを抱きかかえたまま、怯えきった様子で次々と廊下へと逃げ出してくる。
――バタン、と。
重厚な扉が閉められる。
しかし廊下の壁際に立ち尽くしていた僕は、心配で居ても立っても居られず、そっとその扉を押し開いた。
そしてそのほんのわずかに開いた扉の隙間から、信じられない光景を目撃してしまった。
血に染まったシーツの上で、母上は青ざめ虚ろな瞳で天井を見つめていた。
呼吸は浅く、胸の上下はほとんど確認できない。
誰の目にも、死の淵に立っていることは明らかだった。
そんな母上の上に覆い被さるようにして、父上がその頬を両手で包み込んだ。
「シャル、死なせない……僕の命を喰ってでも生きろ」
父上はそう囁くと母上の色を失った唇を己の唇で深く、乱暴に塞いだ。
それは愛を確かめ合うような口づけではなかった。
直後、父上の全身から眩いほどの黄金の魔力が溢れ出し、それが巨大な濁流となって、唇を通して母上の身体へと直接注ぎ込まれていくのが見えた。
命そのものである「生命エネルギー」の、強制的な譲渡。
――ズズッ、ズズッ……。
静まり返った部屋に、母上が父上の精気を吸い上げる奇妙な音が響いていた。
信じられないことに、死にかけていたはずの母上の細い腕が跳ね上がり、父上の背中にきつく絡みついたのだ。
まるで獲物を捕らえた毒蜘蛛のように。
母上の背中が弓なりに反り、父上の服を掴む指先に、ギリリと恐ろしい力がこもる。
閉ざされた母上のまぶたの隙間から、妖しく発光する緋色の瞳が覗いていた。
それは、僕が知っている優しくて儚い「母」の顔ではなかった。
圧倒的な熱量と生命力を貪り、喰らい、満たされていく……ただひたすらに飢えを満たす『獣』。
あるいは、男の命を啜る魔性の魔物の顔だった。
部屋の隙間から、血の匂いを塗り潰すほどの、脳髄が痺れるようなひどく甘い香りが漏れ出してくる。
父上の強大な生命エネルギーが、目に見える光の束となって母上の口内へと吸い込まれ、青ざめていた母上の肌にみるみるうちに赤みが差していく。
(……母、上……?)
僕は、恐怖で声も出せず、ガタガタと震える足でその光景を凝視していた。
(母上が、父上を「食べている」)
あんなに弱々しく、守られなければ生きていけないと思っていた母上が、底なし沼のように父上の命を貪り尽くしている。
そして父上もまた、殺されるかもしれないというのに、それを狂気的な歓喜と共に受け入れているのだ。
僕が信じていた「優しい両親」の姿が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「――いけません、リオン様……ッ!!」
ふいに背後からアンナの悲痛な声が響き、僕の腕が強く引かれた。
アンナはガタガタと震えながら僕を扉の隙間から強引に引き剥がした。
「閣下から全員部屋から出るようにと厳命が下ったではありませんか……っ! これ以上覗き見ていては後でどのような罰を与えられるか……っ」
アンナの顔は青ざめ、声は恐怖で上ずっていた。
彼女は母上のあの異様さを知っているわけではない。
ただ、先ほどの父上の殺気を孕んだ怒声と、絶対に逆らってはならないという主君の命令に怯えきっているのだ。
父上の命令に背いたとなれば侍女である彼女はおろか、息子の僕であってもどんな恐ろしい罰が下るか分からない。
――バタンッ!
僕が引き離された直後、分厚い扉が完全に閉ざされ、母上の産室は外界から完全に遮断された。
しかし目を逸らされても、僕の脳裏には先ほどの光景が鮮烈に焼き付いて離れなかった。
蜘蛛のように父上に絡みつき、命を啜り上げる母上の姿。
あれは単なる病や体質といった生易しいものではない。
母上は一体、何者なのだろうか。
そして父上は、この公爵邸の奥底で僕たちに何を隠しているのか。
生まれたばかりの三つ子の元気な泣き声が廊下の奥で響く中、僕はただ、自分の中に芽生えたどうしようもない恐怖と疑念に震えることしかできなかった。




