38_お父様を呼んできて リオンside
母上のお腹に三つの新しい命が宿っていると分かってから、我が家はまるで見えない氷の上を歩くような、ひどく張り詰めた空気に包まれていた。
元々線の細い母上にとって、三つ子の妊娠は想像を絶する負担だったのだと思う。
月日が流れ、妊娠八か月を迎える頃には母上はベッドから起き上がることも難しくなり、透き通るような白い肌には常に苦しげな疲労の色が滲んでいた。
父上は可能な限り邸に留まり膨大な魔力で母上の気力を補っていたけれど、王国の魔法省長官という立場上どうしても外さなければならない公務というものが存在する。
事件は父上がどうしても王宮へ赴かなければならなかったその日、予定日より随分と早く起きてしまった。
「……っ、あ……あああああぁっ!」
昼下がり、別館のサロンから母上の短い悲鳴のような声が響いた。
すぐ隣の部屋で本を読んでいた僕は嫌な予感に弾かれたようにサロンの扉を乱暴に開け放った。
目に飛び込んできたのは絨毯の上でお腹を抱え、ひどい脂汗を流してうずくまる母上の姿だった。
床にはすでに生々しい水濡れの染みが広がっている。
――破水だ。
「奥様! ああどうしましょう、まだ産婆も到着しておりませんのに!」
侍女のアンナが半狂乱になって叫んでいる。
無理もない。
本来の予定日はまだまだ先で、お産のための本格的な準備は整いきっていなかったのだ。
僕は母上の傍に駆け寄りその小さな手を両手で握りしめた。
氷のように冷たい。
けれどその奥底では三つの強大な命が「外へ出せ」と暴れ狂うような、恐ろしい魔力のうねりを感じる。
――このままでは母上の命が危ない。
「母上! しっかりしてください!」
僕が叫ぶと母上は霞む緋色の瞳を微かに開け、震える指先で僕の服の袖をきつく、ひどくきつく掴んだ。
「リオン……っ」
「はい、ここにいます。僕がいます」
「レインハルト様を……お父様を呼んできて……っ。お願い……!」
それは文字通り命を削るような悲痛な懇願だった。
母上にとって父上は絶対的な命綱だ。
父上の強大な魔力がなければ母上はこの三つの命の重さに耐えきれず、引き裂かれてしまうかもしれない。
僕は短く頷くと母上の手をアンナに託し、弾かれたように部屋を飛び出した。
廊下を走りながら僕は脳内で必死に魔法式を構築していた。
王宮はここから遠い。
馬車を使えば早くても一時間はかかる。
そんな悠長なことをしている時間はなかった。
遥か遠くの空間を繋ぐ『転移門』を開く技術も、空を飛ぶ魔法も、十歳の僕にはまだ扱うことができない。
今の僕に使えるのは視認できる程度の空間を無理やり圧縮し、一瞬で移動する『縮地』の魔法だけだった。
本来これは戦闘中の回避や奇襲に使われるものであり、長距離の移動のために連続使用するような代物ではない。
「……やるしかない!」
僕は庭園に飛び出すと同時に一つ目の魔法陣を足元で展開した。
空間が歪み次の瞬間、僕は公爵邸の門の先へと弾き出される。
休む間もなく次の目標地点――王宮へと続く大通りの屋根の上を睨みつけ、再び魔法式を起動する。
――バンッ! バンッ! バンッ!
未熟な魔法を強引に繋ぎ合わせるたび、破裂音と共に景色がコマ送りのように切り替わっていく。
魔力回路が焼け焦げるような激痛が全身を走り、肺が熱く焼け爛れたように苦しい。
三回、五回、十回と繰り返すうちに、鼻の奥から生温かい血がツツーッと流れ落ちてくるのが分かった。
視界が明滅し胃袋がひっくり返りそうな吐き気に襲われる。
それでも僕は足を止めなかった。
僕の脳裏には脂汗を流して苦しむ母上の顔が焼き付いていた。
僕が止まれば母上が死んでしまうかもしれない。
その恐怖が僕の限界を超えた魔力を強引に引き出していた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
どれほど『縮地』を繰り返しただろうか。
王宮の厳重な結界を強行突破し、僕は魔法省の北翼にある「魔術発展研究室」の重厚な扉の前に辿り着いた。
警備の騎士たちが血まみれの僕を見て慌てて静止しようとするのを無視し、僕はありったけの魔力を込めてその扉を蹴り開けた。
「――父上ッ!!」
静まり返っていた研究室に僕の枯れた叫び声が響き渡る。
山積みの書類に向かっていた父上が弾かれたように立ち上がった。
鼻血を流し肩で息をする僕の姿を見た瞬間、父上の黄金の瞳がスッと細められ、室内の温度が急激に下がったのが分かった。
「リオン。……どうした。何があった」
声音は静かだったがその背後に渦巻く魔力の圧は、大の大人が失神しかねないほどに恐ろしいものだった。
僕は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、叫んだ。
「母上が……破水しました! 予定日よりずっと早く……母上が、父上を呼んでいますッ!」
その言葉を聞いた瞬間、父上の表情から「魔法省長官」としての顔が完全に消え去った。
そこに残ったのは狂気的なまでに妻を愛し、執着する一人の男の素顔だけだった。
「――……!」
父上は短く息を吐くと即座に自身の足元に巨大な黄金の魔法陣を展開した。
複雑な幾何学模様が瞬く間に空中に組み上がり、目も眩むような魔力の光が研究室を包み込む。
それは紛れもなく『転移門』の起動式だった。
「か、閣下!? お待ちください、王宮内での空間魔法の使用はいかなる理由があろうとも国家への反逆とみなされ――」
慌てて止めに入ろうとした部下の魔導士たちを父上は振り返りもせずに冷徹な声で一蹴した。
「今日だけだ。……転移したら痕跡を完全に消しておいてくれ。すまない」
それは長官としての命令でもなく、ただの強引な事後承諾だった。
王国の法律よりも自身の立場よりも、父上にとっては母上の一秒の苦しみを長引かせることの方が、よほど重い罪なのだ。
父上の体から放たれる黄金の光が臨界点に達する。
一瞬だけ、父上が僕の方を見下ろし、僕の手を引いた。
その瞳には「よくやった」というかすかな労いの色が浮かんでいた気がした。
次の瞬間、鼓膜を劈くような高周波の音と共に僕と父上の姿は光の中に完全に溶け、その場から跡形もなく掻き消えた。
僕は黄金の魔力圧に全身を叩かれながら、ただひたすらに祈るように呟いた。
「……母上、いま行きます」




