37_三つ子の兆し
レインハルト様が帰還されてから、三月という時間が穏やかに流れ去っていました。
別館での恐ろしい孤独や、心身を蝕んでいた原因不明の衰弱は嘘のように消え去り、公爵邸には平穏な日々が戻っています。
あの頃、確かに別館にはライゼン様という若い護衛騎士が控えていました。
彼が優しく接してくれたことは何となく覚えています。
けれど、彼とどのような会話を交わしたのか、あの日々に具体的に何があったのか……記憶を手繰り寄せようとしても頭の中に真っ白で分厚い霧がかかったようにぼんやりとして、重要な部分がすっぽりと抜け落ちているのです。
ただ、霧の向こうから聞こえてくるのは「嫌なことはもう、忘れていい」という、レインハルト様のひどく甘く優しい声だけ。
その声に包まれると、不思議とすべての不安や微かな罪悪感がふっと溶けてなくなり、わたしはただ、大好きな夫の腕の中で絶対的な安心感に浸ることだけができました。
そんなある日の朝、わたしはいつものようにダイニングルームへ向かおうとして、突然の強い立ち眩みと吐き気に襲われ、その場にうずくまってしまいました。
驚いたレインハルト様がすぐさまわたしを抱き上げ、慌てて王都からシュルツ医師を呼び寄せる事態となったのです。
寝室のベッドに横たわるわたしの手を、レインハルト様が白くなるほどきつく握りしめていました。
その黄金の瞳にはいつになく焦燥の色が浮かんでいます。
しかし、入念な診察を終えたシュルツ医師の口から告げられたのは病の宣告ではなく、吉報でした。
「おめでとうございます、閣下、奥様。……ご懐妊です」
その言葉が寝室に響いた瞬間、わたしは少し目を見開き、ゆっくりとお腹に視線を落とします。
イリスを出産した後、わたしの体への負担を考慮して、レインハルト様は強力な避妊の魔法をかけてくださっていました。
それが解かれて、まだわずかばかりの月日しか経っていないというのに。
「シャル……!」
レインハルト様は感極まったように声を震わせると、わたしの寝着越しにお腹へと顔を埋め、それから何度も何度も、わたしの額や頬、唇に熱い口づけを落としました。
「ありがとう、シャル。僕たちの愛の結晶だ……。ああ、なんて愛おしいんだろう」
彼の声は深い喜びに満ち溢れていました。
けれどその黄金の瞳の奥には、愛する妻を新しい命という絶対的な鎖で再びこの黄金の檻に繋ぎ止められたという、ひどく昏く、甘い執着の炎が揺らめいているのを感じました。
それでも、今のわたしにはその執着すらも心地よく、涙がポロポロと溢れて止まりませんでした。
彼がわたしを心の底から愛し、求めてくれた証。
「あなたの子を、またこの手で抱けるのですね……嬉しい、本当に嬉しいですわ」
わたしは泣きながら、彼の首に腕を回してきつく抱きつきました。
彼もまた、わたしの背中が折れるのではないかと思うほど強く抱きしめ返してくれました。
***
その日の夕食後、さっそく子どもたちを集めて家族会議が開かれました。
長男のリオン、双子のサリエスとアルテミス、次女のリリアンと、そしてまだ幼いイリス。
「みんな聞いてくれ。……お母様のお腹に新しい弟か妹ができたんだ」
レインハルト様が誇らしげに宣言すると、子どもたちは一瞬きょとんとした後、わぁっ! と歓声を上げて駆け寄ってきました。
「ほんとう!? やったぁ、またお姉ちゃんになれる!」
「ぼくがお兄ちゃんだよ! 剣の稽古してあげるんだ!」
サリエスとアルテミスが、わたしのお腹をそっと撫でながら飛び跳ねて喜びます。
わたしも幸せな気持ちで微笑みながら、ふと長男のリオンの方を見ました。
十歳になるリオンは、他の子たちのように無邪気に騒ぐことはなく、少し離れた場所から、じっとわたしのお腹を凝視していました。
その黄金の瞳は、父譲りの鋭い魔力視の光を帯びています。
彼は不思議そうに小首を傾げると、ふう、と小さくため息をついて、レインハルト様を見上げました。
「父上」
突然、長男のリオンが手に持っていたカップを止め、わたしのお腹を凝視しました。
「……母上。少しよろしいですか?」
「どうしたのリオン、そんなに真剣な顔をして」
リオンはわたしの前に跪き、そっとお腹に手を当てました。
父譲りの鋭い魔力感知能力を持つ彼は、困惑と驚きが入り混じったような表情で父・レインハルト様を見上げました。
「父上。……加減というものを知らないのですか?」
「……何のことだい?」
「母上の胎内……。……魔力の核が、三つあります。……赤ちゃんが三人、いますよ」
「「え……っ!!?」」
わたしとレインハルト様の声が重なりました。
三、人?
サリエスとアルテミスの時は双子でしたが、今回は三つ子だというのでしょうか。
「「「えええええっ!?」」」
一拍遅れて、子どもたちと、控えていたアンナたち使用人の驚愕の声が重なりました。
わたしは信じられない思いで慌てて自分のお腹に両手を当てました。
まだ膨らみもしていないその奥に、三つもの新しい命が宿っているなんて。
「……三つ子。……六人目、七人目、そして八人目か……」
レインハルト様は一瞬呆然とした後、すぐに顔を覆って歓喜の震えを漏らしました。
「……はは、……ははは! 素晴らしいよシャル! ……これで我がヴァルテンベルク家は安泰だね」
「レ、レインハルト様! そんな誇らしげに仰っている場合ではありませんわ! 三つ子なんて、わたしどうしたら……っ」
パニックになりかけるわたしを彼はひどく甘く、余裕に満ちた手つきで抱き寄せました。
「大丈夫だよ。僕が持てる力のすべてを使って、君と子どもたちを完璧に守り抜いてみせるから。……誰の目にも触れさせない、この安全な公爵邸でね」
その言葉の裏に隠された狂気的なまでの過保護さにわたしは一抹の恐ろしさを感じながらも、お腹に宿った三つの命の重みに、ただひたすらに幸せな涙を流すことしかできませんでした。
わたしのお腹に宿った三つ子がやがて我が家にさらなる嵐を呼び込むことになろうとは、この時は誰も予想していなかったのです――。
第四部 三幕、これにて終幕です。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
次回、四幕の開幕――。
三つ子の出産と、瀕死のシャルロット。
そして、両親の秘密を垣間見てしまった長男・リオンの行動は……。
お楽しみに。




