36_癒えない渇望 レインハルトside
「シャル、どうしてここに?」
僕の表情は冷酷な魔導師から一瞬で「ただの夫であり父親」のそれへと溶け落ちた。
僕は立ち上がり、小走りで歩み寄ってくる彼女を慈しむように迎え入れた。
彼女の脳内にはライゼンとの夜の生々しい記憶を封印する強固な暗示をかけてある。
だから今の彼女は何の罪悪感も恐怖も抱かず、純粋な愛だけを僕に向けて微笑んでいるのだ。
「ふふ、来ちゃった。アルテミスたちとおやつを焼いたから、お裾分けに。……ねえ、リオン?」
シャルロットは警護役として剣を帯びた長男リオンに視線を合わせ、小悪魔のように可愛らしく首を傾げた。
十歳になったリオンは僕譲りの鋭い瞳で周囲を警戒しながらも、母の甘えには弱いようで少し照れくさそうに頷いた。
「母上がどうしてもと言うので。……父上、お邪魔でしたか?」
「いや、最高の差し入れだよ」
僕がシャルロットの細い腰を抱き寄せ、その甘い香りのする項に愛おしげに顔を埋めた、その時。
「ひ、……っ、あ、……あ……あ……っ!!」
背後でガタガタと椅子が倒れる激しい音が響いた。
振り返るとライゼンが床に這いつくばるようにして震えていた。
彼の瞳は完全に焦点が合わず、呼吸は過呼吸寸前まで乱れ、涎まで垂らしている。
「……ライゼンさん?」
シャルロットが不思議そうに彼へ視線を向けた。
その瞬間、ライゼンの脳裏に消去したはずの「記憶の残滓」が閃光のように駆け巡ったのだろう。
目の前のこの慈愛に満ちた美しい女性。
彼女の足元に跪き、獣のように貪った自分。
彼女から溢れ出す脳を焼き切るような甘い香りと、骨の髄まで吸い尽くされるような暴力的な快楽。
そして何より、僕にすべてを暴かれ魂ごと握り潰されたあの夜の「死の恐怖」。
彼自身の肉体がその相反する極限の感覚をすべて記憶していたのだ。
絶頂と処刑。
二つの極限が彼の細い神経をズタズタに引き裂いていく。
「奥様、……あ、……ぁ、……ああああ……っ!!」
ライゼンは言葉にならない悲鳴を上げ、自分の腕をかき抱いてガタガタと震え続けた。
その姿は神罰に打たれた罪人のようでもあり、究極の毒に中てられた末期の中毒者のようでもあった。
「あら……。レインハルト様、ライゼン様はどこかお加減が悪いのですか?」
シャルロットは心底心配そうに眉を寄せ、彼に一歩近づこうとした。
「止まりなさい、シャル」
僕は静かに、しかし絶対的な命令を含んだ声で制した。
僕の黄金の瞳には地べたを這いずる虫への冷徹な観察眼と、シャルロットへの暗い独占欲が渦巻いている。
「彼は少し魔力の循環を乱しているだけだ。……なに、君が心配することはない。ライゼン、君はもう下がりなさい。しばらく休暇を与えよう。婚約者と、ゆっくり……その『震え』の正体を探るといい」
「は、……っ、ぁ、……あ……。申し、訳、……ありません……っ」
ライゼンはシャルロットの影すら直視できないほどに萎縮し、這いずるようにして研究室から逃げ出していった。
重厚な扉が閉まると、研究室には再び平和で、しかしどこか歪んだ家族の時間が戻った。
「困った部下だ。……さあ、シャル、リオン。アルテミスとサリエスも。君たちが焼いてくれたおやつを頂こうか」
僕はシャルロットを自分の膝の上に抱き上げ、彼女の柔らかな指先にちゅっとキスを落とした。
僕の視線の先にはライゼンがこぼした惨めな涙と、震えの痕跡が残る床がある。
(……あの男、婚約者との夜に僕の妻を思い出して発情しているのか。あるいは、僕への恐怖で機能しなくなっているのか。……どちらにせよ、滑稽だね)
僕はシャルロットの首筋に鼻を寄せ、彼女から微かに立ち昇る甘い香りを深く吸い込んだ。
ライゼンの記憶を消したのは彼の正気を保つためではない。
彼が「現実」で彼女に触れる資格を永遠に剥奪するためだ。
記憶がないからこそ、彼は一生、自分の身体がなぜこれほどまでに絶望的な渇望と恐怖に震えるのか、答えを見つけることができない。
――それが、僕の聖域を侵した男への罰なのだ。
「レインハルト様? どうかしましたか?」
「いや。……君が焼いてくれたお菓子は、誰よりも僕を満足させてくれると言いたかっただけだよ、シャル」
僕は小悪魔のように微笑む妻の唇を、子供たちの前で深く、執拗に塞いだ。
「父上。場所をわきまえてください。それに僕たちの目の前で……!」
「お父様の部下の方があからさまに視線を逸らしていったわね」
「……僕たちのほうが恥ずかしくなるよね、アルテミス……」
リオンが呆れたようにため息をつき、双子たちがクスクスと笑う中、僕は自分の作り上げたこの「黄金の檻」の完璧さに、深い悦びに浸っていた。
一方、王宮の回廊を走り抜けるライゼンは自分が原因不明の恐怖に震えながらも、熱く昂ぶっている己の肉体に気づき、絶望の涙を流し続けていることだろう。
彼にとって僕の妻はもはや人間ではなく、一生かかっても抗えない、死と快楽を司る「信仰」そのものになってしまったのだろう。
それこそが、僕が彼に与えた死よりも残酷な「慈悲」の結末だった。




