35_記憶のない忠臣 レインハルトside
王宮の北翼に位置する冷たい石造りの回廊の最奥。
そこには魔法省長官である僕が統括する「魔術発展研究室」がある。
高い天井まで届く巨大な書架と、怪しく光る魔導具の数々、そして常に微かに漂うオゾンの匂い。
ここは魔導士たちにとっての聖域であり、同時に僕の絶対的な支配下にある場所だ。
その研究室の一角で、若き魔導士ライゼンは自分の震える両手を見つめて立ち尽くしていた。
一か月前、我が公爵邸での任務から実家に帰還して以来、彼の心身には深刻な異変が起きていた。
理由は明らかだ。
シャルの毒が回った身体、そして僕が直接、彼の脳に多大な負荷をかけて特定の記憶――僕の留守中に公爵邸を警護していた数か月間の記憶を完全に焼き切って消去したのだから。
「……ライゼン。どうかしたのかい?」
僕は足音を立てずに背後へと近づき、ひどく滑らかで思いやりに満ちた上司の声をかけた。
ライゼンは弾かれたように振り返り、顔面を蒼白にして深く頭を下げた。
「か、閣下……! いえ、申し訳ありません。少し、考え事をしておりました」
僕は漆黒の魔導衣の袖を軽く払い、彼を安心させるように静かに微笑んだ。
「君ほどの優秀な部下がこうも連日精彩を欠いていると心配になる。……どうかな、僕でよければ相談に乗ろう。ここは二人きりだ」
優雅な所作で椅子に腰を下ろし、ライゼンにも座るよう促す。
その慈悲深い態度に絆されたのか、ライゼンは喉の奥で詰まっていた苦悩を堰を切ったように吐露し始めた。
「閣下……実は自分でも分からないのです。婚約者との夜が……どうしても、満たされないのです。彼女は美しく、献身的な女性です。しかし、彼女に触れようとすると身体が……何かに怯えるように、あるいは何かを激しく渇望するように震え出し、涙が止まらなくなるのです。自分はどこか壊れてしまったのでしょうか」
僕は組んだ指の上に顎を乗せ、彼の惨めな告白を柔らかな口調で聞き入っていた。
その瞳の奥でどうしようもない嘲笑と愉悦が渦巻いていることなど、彼には決して分からないだろう。
「それは災難だね、ライゼン。魔導士は精神の安定が不可欠だ。……もしかすると、君は自分でも気づかないうちに『至高の快楽』の断片に触れてしまったのかもしれない。人間の脳は一度でも神の領域に近い悦びを知ってしまうと、平凡な幸せには戻れなくなるものだからね」
「神の、領域……?」
「ああ。……君には慈悲が必要だ」
僕は心の底で冷たく笑った。
――あの日、国境へ向かう前から僕は計画を立てていた。
『もし僕の不在中にシャルロットが精気切れを起こし死に直面した時、ライゼンを喰わせる」ということを。
成体となった彼女が放つ淫魔のフェロモンは、放置すれば屋敷の罪のない使用人たちを無差別に引き寄せ、あるいは狂わせて殺してしまう。
ならば魔力的に優れたこの男を「生贄」として残し、彼女の渇きを一時的に癒す器にするのが最も効率的だった。
それにも関わらず本気で僕の妻であるシャルに恋心を抱いていたらしいライゼン。
記憶を消去され、原因不明の禁断症状に苦しむ抜け殻のような彼を眺めるのは、今の僕にとって至上の娯楽でもあった。
シャルロットという極上の毒を味わい、定期的に精気を吸われていた肉体が、突然その供給を絶たれたことで細胞レベルで彼女の熱を求めて飢え狂っているのである。
その原因すら自覚できないまま、彼はただ己の身体が壊れていく恐怖に怯えきっていた。
「閣下……私は、これからどうなってしまうのでしょうか。……半年後にはマルシアとの結婚式も控えているというのに……っ」
優秀な魔導騎士としての誇りも何もかも失い、ボロボロと情けない涙をこぼすライゼン。
「焦る必要はないよライゼン」
僕は微笑みながら、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた声をかけてやった。
「今はただ、ゆっくりと休むことだ。……数か月、あるいは数年もすれば自然と心身の調子も落ち着いてくるだろう」
「数年……っ」
絶望に打ちひしがれたように、彼は顔を歪ませて呻いた。
数年で済めば良い方だろう。
たとえ何年経とうとも、彼は毎夜のように顔も思い出せない女の幻影にうなされ、熱に浮かされながら、決して満たされることのない渇きに身悶えし続けることになるに違いない。
その時、研究室の重厚な扉が軽やかな音を立てて開いた。
「――レインハルト様!」
凛とした、けれど鈴を転がすような甘い声。
ライゼンの身体がその声を聞いた瞬間に「ビクッ」と激しく痙攣した。
扉から現れたのは薄紫色の髪をなびかせ、五人を産んだとは思えない――むしろ産むたびに瑞々しさを増していくような、人外の美しさを纏った僕の最愛の妻、シャルロットだった。
彼女の両脇にはリオンと、双子のサリエス、アルテミスの三人が付き添っている。
最近魔導の力の発現が目覚ましいリオンか双子が同行することを条件に、シャルロットが僕の元へ会いに来ることのみ、特例として外出を許可したばかりだったのだ。




