34_洗い流すもの、刻み直すもの②
数か月ぶりに触れる夫の身体は以前よりも逞しく、筋肉質に感じられました。
紛争の気配があった数年前より身体を鍛えていたのもあり、学生の頃とは全く違う分厚い胸筋を纏っています。
広い背中を泡立てた海綿で優しく撫でると、ほう、という吐息が漏れる。
結婚してもう十年経つというのに、この夫の色気は色あせることはありません。
豊かで艶やかな黒髪からぽたぽたと雫が落ち、鎖骨のくぼみへと流れていきます。
彼の身体を洗い終えると、満足げな微笑を浮かべた夫は濡れたわたしの身体をふわりと抱き上げました。
そして、白く濁った特製の薬湯がたっぷりと満たされる、広い浴槽へと。
ちゃぷり、と柔らかな音を立てて、わたしたちはふたりきりの温かな深淵へとゆっくり沈んでいきます。
彼はわたしを後ろから包み込むように抱き寄せると、わたしの様子を窺うように少しだけ首を傾げました。
「……僕が怖い? シャル」
静かな問いかけに、わたしの心臓が大きく跳ね上がります。
「え……っ、そ、そんなことは……」
「正直に言っていいんだよ。僕に触れられるたび、君は怯えた小鳥のように震えている。……僕が君を傷つけるとでも思っているのかい?」
「ちが、違います……っ。わたしはただ、自分の犯した罪が……」
言い淀むわたしの言葉を遮るように、彼はひどく優しい手つきで、わたしの頬をそっと撫でました。
「レインハルト様……ごめんなさい、わたし……」
「謝らなくていいと言っただろう? 君は僕の可愛い妻だ。……何も変わっていないよ」
彼の指先が、お湯の中でわたしの全身を甘く撫でていきます。
その触れ方はどこまでも優しく、微塵の暴力性もありませんでしたが、同時に絶対に逃がさないという執着に満ちていました。
「……っ……」
「君の身体も、心も、帰る場所も、全部ここにある」
「でも、わたしは……他の人に、触れられて……っ」
泣きそうに声を震わせた、その瞬間でした。
「『――ライゼンとのことはもう、忘れていい』」
耳元で囁かれたその言葉は、単なる慰めではありませんでした。
鼓膜を通り越し、脳髄の奥深くに直接流し込まれた、重く甘い『呪言』。
彼の声に乗せられた強大な魔力が、わたしの意思の奥に沈んでいた恐怖と罪悪感を、甘く重い膜で包み込んでいきました。
「いつから肌を重ねていたかなんて聞かない。全部、忘れて。僕はそれ以上望まない。謝罪も、贖罪もいらない。君だけの愛があれば、僕は生きていける……」
「……っ、あぁっ……わたし、わたしは……わたしも……」
背筋が震えるほどの強い魔力が全身を駆け抜け、わたしは湯船の中で大きく身を震わせました。
目の前が白く明滅し、抱えていた罪悪感も恐怖も、すべてが静かに溶けていきます。
レインハルト様はそんなわたしを逃がさないように強く抱きしめ、耳元で言葉を紡いでいく。
「いい子だ。……怖がらなくていい。嫌な記憶は全部、僕が忘れさせてあげるからね」
甘く重厚なバリトンボイスが鼓膜を震わせ、全身を満たしていく。
――彼がいなければ生きていけない。
――この黄金の檻から出られない。
けれど、その絶望的な支配が、今のわたしには抗いようもなく幸せに感じられてしまうのです。
思考を奪われ、至高の甘い言葉で言いくるめられ、わたしはただ心地よさと彼の魔力に溺れていくしかありませんでした。
「はぁ……レインハルト様……」
「そう、僕の名前だけを呼んで。……君は僕の最愛の妻だろう?」
ちかちかと瞬く意識の中で、わたしは自分が何を恐れていたのかすら分からなくなっていきました。
いえ、本当は初めから分かっていたのです。
わたしは、彼が怖いのではありません。
彼に見限られ、あの冷たい黄金の瞳で『もういらない』と捨てられることが、何よりも恐ろしかったのです。
だからこそ、こんなにも異常で狂気的な愛であっても彼がわたしを求めてくれるのなら、すがりつくしかありません。
身体の震えが止まり、強張っていた力が完全に抜け落ちていきました。
わたしは湯船の中でゆっくりと身を翻し、自分から夫に抱きつきました。
そして、彼の大きな手に自ら頬をすり寄せ、涙で濡れた瞳で見上げます。
「……わたしは、あなたの妻ですから。怖かったのは、あなたに嫌われることです」
絞り出すように本音を零すと、レインハルト様は満足そうに瞳を細め、わたしの唇に深く、甘い口づけを落としました。
「僕が君を嫌うわけがないだろう? 君の美しさも、魂も、罪さえも。すべてを愛しているよ、シャルロット」
完全に恐怖が消え去ったわけではありません。
彼の心の底に横たわるほの昏い狂気を、わたしはもう知ってしまったのですから。
それでも、わたしはこの黄金の檻の中でしか生きられないのです。
彼の腕の中にすっぽりと収まり、その深く甘い魔力に満たされていると、わたしは久しぶりに、深く安堵の息ができるのを感じたのでした。




