33_洗い流すもの、刻み直すもの①
あの一夜の凄惨な出来事から、数日が過ぎていました。
レインハルト様が戦場から帰還され、公爵邸にはかつての平穏な日常が戻っています。
子どもたちの笑い声が響き、使用人たちも主が戻られたことで深く安堵の表情を浮かべていました。
レインハルト様も、以前と何一つ変わらぬ、優しく愛情深い夫の顔でわたしに接してくださいます。
まだ、戦後処理や協定などで毎日邸を空けられますが、夜には必ずお帰りになられるのです。
……けれど、わたしの心に深く打ち込まれた恐怖の楔は、少しも抜けることはありませんでした。
彼がわたしを愛していることは、痛いほどに分かっています。
それでも、ふとした瞬間にあの夜の光景がフラッシュバックするのです。
口元は微笑んでいるのに全く笑っていなかった、氷のように冷酷な黄金の瞳。
血まみれの手袋で記憶を焼き切り、わたしに精気を与えながら彼が吐き捨てた、『食事』という恐ろしい言葉。
そして、避妊の魔法を強制的に解除されたあの夜の重みが、今も生々しくお腹の底に居座り続けています。
彼から触れられるたびに、どうしても身体が微かに強張ってしまうのでした。
そして、家族揃っての夕食の時。
隣に座るレインハルト様は、わたしの顔を覗き込むようにして言いました。
「まだ少し、顔色が優れないね」
「そうでしょうか……」
「……お風呂に入って、身体を温めようか」
彼はひどく優しい手つきでわたしの頬を撫でます。
その指先が触れた瞬間、わたしは反射的に息を呑み、わずかに身を引いてしまいました。
その小さな拒絶の反応に、彼は気づいているはずです。
それでも、彼は咎めることも怒ることもせず、ただひたすらに甘く微笑んでいました。
「はい……」
「君のために、特製の薬湯を用意させてあるんだ。弱った身体の巡りを良くしてくれるからね」
その夜、別館の脱衣所でわたしは指一本動かすことも無く、夫の手によってドレスを脱ぎ落とされました。
出征前ならばあまりにも甘い時間だったその空間は、今はなんともいえない気まずさが漂っています。
肌を隠すものがなくなると、わたしはまつげを伏せながら浴室の引き戸を開けました。
滑らかな大理石の感触を足の裏に感じながら静かに洗い場へと歩みを進めます。
立ちこめる湯気は甘く、むせ返るような濃密な湿度を帯びている。
あらかじめ暖められていた室内は、冬の気配など微塵も感じさせないほどに快適でした。
「ここに座って、シャル」
背後から優しく促され、わたしは用意されていた低いスツールに腰を下ろしました。
すぐ後ろに、レインハルト様が片膝をつく気配がします。
王国最強の魔導師であり、絶対的な主君であるはずの方が、一介の侍女のようにわたしの足元へとかしずいているのです。
柔らかな海綿が、お湯をたっぷりと含んで背中に触れました。
「……っ」
ひどく滑らかな上質な石鹸の泡が、首筋から肩のラインをゆっくりと滑り落ちていきます。
彼の手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うかのように、どこまでも慎重で丁寧でした。
けれど、その奥に隠された『誰かの痕跡を削ぎ落とす』という執拗な意志を、わたしの肌は敏感に感じ取ってしまいます。
「髪も、ずいぶん伸びたね」
彼自身の魔力が溶け込んだ甘い香油が、わたしの薄紫の髪にすり込まれていきます。
指先が頭皮を優しく揉みほぐし、首の後ろから耳の裏にかけてを、何度も、何度も確かめるように撫でていきました。
「僕がいない間、ひとりで寂しかっただろう。……あぁ、子どもたちはいただろうけどね」
「……わたし、途中で体調を崩してしまって……。子どもたちも、アンナやメイド達に預けっぱなしに…………」
「いいんだよ。君はもともと特異な体質なのだから。……それよりも、僕との子を成してくれていることに感謝をしないとね」
泡を纏った大きな手の平が、わたしの細い腕を包み込み、指先の一本一本までを丹念に擦り上げていきます。
鎖骨のすぐ下で指先が止まり、そこから肩、背中、腰のくぼみへと泡がゆっくり流れていきました。
「レインハルト様……っ、もう、十分ですわ……」
たまらず震える声を零すと、背中に回されていた手がぴたりと止まりました。
「十分なものか。……君は僕の宝物なんだから、どれだけ手を尽くしても足りないよ」
耳元にかかる熱い吐息と共に、ちゅっと、濡れたうなじに口づけが落とされました。
ビクンと跳ねた身体を逃がさないように、彼のもう片方の手が、逃げようとしたわたしの膝をそっと押し留めます。
「……やっぱり、自分で……っ!」
「ほら、力が入っているよ、シャル。……僕に身を委ねて」
「あ、あなたの身体を、……わたしが、洗いますから……」
「そう?……」
それはお風呂という日常の行為を借りた、完全な精神の支配でした。
彼に逆らえば見限られるという恐怖と、彼の魔力なしでは生きられないという絶望的な依存が、石鹸の泡と一緒にわたしの理性を溶かしていきます。
やがて温かなお湯がたっぷりと満たされた手桶が、わたしの肩上へと傾けられました。
ざばり、と心地よいお湯が全身を流れ落ちていきます。
ライゼン様との記憶も、わたしが不貞を働いたという罪の意識すらも、彼のお湯によって強制的に剥がされ、排水溝の奥へと消えていくようでした。




