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32_僕の封蝋 レインハルトside


 朝の光が、ヴァルテンベルク公爵邸の本館執務室に静かに差し込んでいた。

 僕は机に向かい、溜まっていた書類に目を通していた。


 ベルツ連合軍との戦いは、双方多大な犠牲を払いながらも彼らを壊滅状態に追い込み、休戦状態に持ち込めた。

 降伏とまではいかなくとも、不可侵協定くらいは結べるだろう。


 そして昨夜、限界を超えた強行転移魔法を使い、さらにはシャルロットの身体に僕の魔力を再び刻み直したというのに、僕の肉体には不思議と疲労は残っていなかった。

 むしろ、長らく絶たれていた彼女の甘い毒を全身に浴びたことで禁断症状が霧散し、僕の感覚はかつてないほどに研ぎ澄まされている。


 別館の主寝室では今頃シャルロットが僕の魔力に満たされ、何か月ぶりかの心地よい深い眠りについているはずだ。

 彼女の身体に残っていたあの目障りな羽虫の痕跡は、昨夜僕によってすべて綺麗に上書きし、焼き尽くした。


 不要になったライゼンは、昨夜のうちに適当な理由を付けて実家に送り返しておいた。

 あとは、事後処理が残っているのみだ。




 コンコン、と静かなノックの音が、朝の静寂を破った。


「旦那様。別館侍女のアンナが、お目通りを願い出ております」


 側に控えていた老執事が、低い声で僕に告げた。


「通して」


 僕が短く応じると、扉が開いてアンナが室内へと足を踏み入れてきた。

 彼女の顔はひどく強張っており、その瞳には夜を徹したような疲労と、何とも言えない怯えの色が混ざっている。


 彼女は僕の机の前まで進み出ると、深く一礼し、震える両手を差し出した。


 その手の上には、小さな白いハンカチに包まれた『何か』が乗せられていた。


「旦那様。……昨夜、別館の小サロンにある暖炉の灰の中から、これを見つけ出しました。不敬を承知で、旦那様にご確認いただきたく存じます」


 アンナがハンカチをゆっくりと開く。

 そこにあったのは、半分以上が熱でドロドロに溶け、真っ黒にすすけた赤い蝋の塊だった。

 僕はそれを指先で拾い上げ、目の前に掲げて観察した。


 煤汚れを指で軽く拭うと、辛うじて残っていた印影の一部が朝の光に照らされる。

 ヴァルテンベルク公爵家の紋章に、百合の花をあしらった特別な意匠の片鱗。

 それは僕が戦地からシャルロットへ宛てて送った、専用の封蝋の残骸だった。


「……これは、僕が前線から彼女に宛てて出した手紙の封蝋だね」


 僕が淡々と事実を口にすると、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。

 その瞬間、僕のすぐ傍らで、ヒュッ、と息を呑む大きな音が響いた。


 振り返ると、老執事が幽霊でも見たかのように顔面を蒼白にし、全身を激しくガタガタと震わせていた。

 彼の脳裏にはすでにパズルのピースが組み合わさるように、すべての真相が浮かび上がっているのだろう。


「あ、ああ……なんということだ……。旦那様、申し訳ありません、すべては私の不徳の致すところでございます……っ!」


 老執事はその場に崩れ落ちるようにして膝をつき、床に頭を何度も打ち付けた。


「戦場から届いた旦那様からの書状を、ライゼン殿が代わりに奥様に届けると仰ったのです。……私はそれを信じ、あの男に手紙を託してしまった。私が、私が安易にあの手紙を渡さなければ、奥様があれほどまでに手紙が来ないと涙を流し、思い詰めることはなかったのです……っ!」


「……僭越ながら。執事長の話を聞く限り、合計三通届いていたそうですが、内二通の行方が知れず。恐らく、焼き払われたのかもしれない……と……」


 老執事の額から恐怖の脂汗が床へとポタポタと滴り落ちる。

 主君の手紙を騙し取り、それを隠匿して焼き捨てた護衛騎士。

 そして、それを見抜けずに手助けをしてしまった己の重過失。


 公爵家の全使用人を統括する立場として、万死に値する大罪だと、彼は己の身体の震えで示していた。

 僕は床に伏せる老執事と、その隣でじっと僕の出方を待っているアンナを、冷めた黄金の瞳で見下ろした。


 しばし、こめかみを押さえ目を伏せ、自分の感情を制御する。


(シャルは、僕からの手紙を受け取れずに、ひとり孤独に涙していたというのか……)


 深いため息を落とし、再び目を開けた時、僕の口から二人を叱責する言葉が出ることはなかった。



「……立ちなさい。二人とも、自分を責める必要はない」

「だ、旦那様……?」


 老執事が信じられないというように、涙と汗に濡れた顔を上げた。


「君たちの忠誠心はよく分かっている。これほどまでに青ざめて身震いしているのを見れば、もう十分に悔いは伝わったからね。ライゼンを護衛に選出した僕の責でもある。……だから、君たちがすべての責任を感じることはない」


 僕が怒りを押し殺し穏やかに微笑んで見せると、老執事は救われた安堵と主君の底知れない寛大さへの恐ろしさで、さらに激しく男泣きに暮れた。

 アンナもまた、小さく息を吐いて深く頭を下げた。

 僕は二人を下がらせると、再び一人になった執務室で、手の中の焦げた封蝋を見つめた。


 老執事の証言からライゼンが僕の手紙を隠滅していたことが確定した。

 少なくとも二通、シャルロットの元に届いていなかった。


 僕の中でライゼンという男への『憎悪』が、明確に、そして完全に確定した瞬間だった。


 シャルロットが他の男に身体を開き、その精気を貪ってしまったという不貞そのものに関しては、僕は初めからすべてを織り込み済みだった。


 僕が長期にわたって不在にすれば、彼女の淫魔としての血が精気切れを起こし、生存本能のままに周囲の男を捕食しようとすることは分かりきっていた科学的な事実だ。

 だからこそ、僕は彼女が無差別に邸の使用人や一般の人間を絡め取り人殺しをしないよう、若く魔力量も豊富なライゼンを『極上の食事』として別館の護衛に残していったのだ。


 シャルロットが生きるために彼を喰らうことは、僕が仕掛けた檻のシステムの一環であり、許容範囲内だった。


 ――だが。

 ライゼンが自らの意志で僕からの手紙を隠匿し、暖炉で燃やしたという行為。

 これは、単なる『餌』としての役割を完全に逸脱した、明確な越権行為であり、反逆だった。

 あの男は僕の手紙を焼き捨てることで、シャルロットを世界の暗闇の中に孤立させようとしたのだ。


 僕からの愛の言葉を遮断し、彼女を絶望の底に突き落とし、誰も助けに来ないと思い込ませることで自分という唯一の温もりに身も心もすべて依存させようとした。

 僕のシャルロットの身体だけでなく心までを、僕から奪い取ろうとしたのだ。


 手の中の封蝋を握りしめると、メリメリと硬い蝋が砕ける音が響いた。

 肚の底から、冷たく、しかし狂おしいほどの怒りがせり上がってくるのを感じる。


「まったく……」


 僕は誰もいない執務室で、低く、冷え切った声で呟いた。


「シャルに喰われ、その呪いを背負い、僕の手の平の上で大人しく踊るだけであれば。……毒抜きにも多少は手心を加えてあげようと思っていたのにね」


 ライゼンがどれほど我が妻を味わったのか知らないが、あの様子なら相当に貪っていたのだろう。

 淫魔(リリス)の呪い。

 渇望と言う呪縛を植え付けられた男が辿る末路はジュリアン王太子の件で立証済みだった。


 ひとつ違うのは、シャルを抱くことなく一度に大量の原液を飲まされたジュリアンと、シャルを抱きながらゆっくりと毒を摂取していたライゼン――。


 記憶を消去されたライゼンが、これからどのような生き地獄を味わうことになるのか、僕にとっても未知数だった。


 本来なら忠実だった部下を生き餌として扱ったことへのせめてもの情けとして、その毒の苦しみを和らげるような処置をしてやることも考えていたのだ。


 ――だが、それはもうやめた。


 僕の聖域を侵し、僕の宝物の心を掠め取ろうとした代償は、彼の想像を絶する絶望となってその身に降りかかることになるだろう。


「……いいさ。好きなだけ苦しむといいよ、ライゼン」


 僕は砕けた封蝋の破片を、机の上のゴミ箱へと無造作に放り捨てた。

 朝の光を浴びながら、僕の口元には、冷酷で狂気的な笑みが深く刻まれていた。


 誰も、僕とシャルロットを引き裂くことはできない。



 たとえそれが、どれほど誠実だった部下であろうとも、僕の用意した幸福な檻のルールを破った羽虫には、等しく残酷な破滅を与えるだけなのだから。







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冷淡ヒーローの“我慢”が限界に近づいていく、 すれ違いから始まる異世界執着愛。
― 新着の感想 ―
気の利いた言い回しができなくて、すみません。 耽溺するほど面白いです。
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