30_引き千切られる記憶の糸
レインハルト様はしゃがみ込み、彼の髪を乱暴に掴み上げ、目線を合わせました。
「――ああ。可哀想に、だいぶシャルに吸われたね? もう抵抗する魔力も残っていないのかい?」
「!?……奥様は心労で倒れられ……、私の愛で活力を取り戻したのです……ッ。私たちは愛し合っています。どうか、寛大な心でお赦しを……。私はシャルロット様と結婚したい、一生あの方をお護りいたします……!」
「不快だと言っただろう、ライゼン」
レインハルト様は短く呟くと、そのままライゼン様の頭を強く壁に打ち付けました。
「がはっ……!?」
鈍い打撃音が部屋に響き渡り、わたしは「ひっ」っと短い悲鳴を漏らすと同時に、ライゼン様は完全に意識を失ったようでした。
ビクン、と痙攣した彼の体が、糸の切れた操り人形のように力なく床へと崩れ落ちます。
魔法すら使わず、純粋な殺意を込めただけの恐るべき物理的な一撃でした。
壁にはべっとりと赤黒い血の染みが広がり、彼がもう二度と立ち上がれないことは誰の目にも明らかでした。
わたしは恐怖で声も出せず、ただベッドの上でガチガチと歯の根を鳴らして震えることしかできません。
あんなにも甘くわたしを慰め、愛を囁いてくれた青年が、目の前で無惨に打ち捨てられているというのに。
わたしの心の中を支配していたのは、彼への同情などではなく、ただひたすらな自身の破滅への恐怖でした。
「汚らわしい羽虫が僕の大切な花に触れた。……その肉片を豚の餌にして、魂ごと業火で焼き尽くしてやりたいところだけど」
彼は笑みを浮かべたまま、まるで世間話でもするかのような穏やかな口調で、恐ろしい呪詛を吐き出します。
レインハルト様は血に濡れた革手袋を忌々しそうに見下ろし、深いため息を吐き出しました。
その口調は、まるで出来の悪い部下の失敗を咎めるような、ひどく事務的で冷淡なものです。
「――だめだよ。ここで君の命を絶ってしまえば、神聖なこの部屋が汚れてしまう。……それに、僕の可愛いシャルが人殺しの罪悪感に一生苛まれることになるだろうからね」
彼はそう呟くと、意識を失って倒れ伏すライゼン様の頭部に、ゆっくりと手を翳しました。
眩い銀色の魔力が、彼の掌から溢れ出す。
ちりちり、と空気が焦げるような嫌な音が鳴り響きました。
「忘れたまえ。この三か月の間、君が僕の妻に抱いた不敬な感情も、触れた感触も、すべて」
ライゼン様の頭から、光る糸のようなものが次々と引きずり出され、空中でパチン、パチンと弾けて消えていきます。
それは、人間の脳から直接記憶を抜き取り、破壊するという、魔法省でも固く禁じられている高度な精神干渉魔法でした。
彼がわたしに向けた熱い視線も、紡いだ愛の言葉も、わたしに触れた体温すらも。
すべてがレインハルト様の手によって無惨に焼き切られ、跡形もなく消去されていくのです。
凄惨な光景を前にして、わたしは完全に崩れ落ちました。
止まらない涙がシーツを濡らし、わたしはベッドの上で土下座をするように丸まりました。
「ごめんなさい……ごめんなさい、レインハルト様……っ」
ただひたすらに、許しを乞う言葉だけが口からこぼれ落ちます。
自分が淫魔の血に抗えず、飢えを満たすために別の男を求めてしまった最低の妻であることは、誰よりもわたし自身が一番理解しています。
――殺される。
愛する夫の手によって、このまま焼き殺されても文句は言えない大罪です。
血に濡れた軍靴の足音が、静かに、ゆっくりとベッドの方へ近づいてくるのが分かりました。
一歩、また一歩と近づくその音は、わたしの命の終わりを告げるカウントダウンのように聞こえました。
わたしは固く目を閉じ、振り下ろされるであろう冷たい罰を覚悟して身をすくませます。
しかし、わたしに触れたのは、恐ろしい魔法の炎や容赦のない打撃ではありませんでした。
先ほどまでライゼン様の血で汚れていたはずの手袋が外され、ひどく冷たい素手の指先が、震えるわたしの顎をそっと掬い上げたのです。
無理やり顔を上げさせられると、すぐ目の前に、ひどく美しく、そして狂気的な笑みを浮かべたレインハルト様の顔がありました。
その黄金の瞳の奥には、どろどろとした嫉妬の炎と、わたしに対する常軌を逸した執着だけが渦巻いています。
彼は恐怖で泣きじゃくるわたしの頬を親指で優しく拭うと、甘く、ひどく蕩けるような声で囁いたのです。
「どう?……僕の用意した食事は、美味しかったかい」




