31_赦しという支配
「しょく……じ……?」
恐怖で強張った喉から、掠れた声がひゅうっとこぼれ落ちました。
あまりにも常軌を逸したその問いかけに、わたしの思考は完全に停止してしまいました。
「あぁ、そうだよ。だって君に無差別に人を襲わせ、殺人をさせるわけにはいかないからね」
至極当然のことのように、レインハルト様は優しく微笑みました。
その甘い声が鼓膜を震わせた瞬間、わたしの全身からスッと血の気が引き、指先までが氷のように冷たくなっていく。
――彼は、すべてを把握していたのです。
ご自身が長期間この公爵邸を空ければ、わたしがいずれ精気切れを起こし、理性を失って他者を喰らう化け物と化すことを。
そして、その恐ろしい飢えを満たすための『極上の餌』として、若く魔力に満ちたライゼン様をわざと別館の護衛に残していったという真実。
初めから、わたしもライゼン様も、この恐ろしく冷酷で愛情深い魔導師の手のひらの上で、滑稽に踊らされていたに過ぎなかったのです。
至近距離で見上げる夫の姿は、ひどく凄惨なものでした。
急いで戦場から帰途についたのでしょう、その軍服には黒ずんだ血がべっとりとこびりついています。
美しく整った顔の頬にも、誰のものとも分からない細かい血しぶきが点々と飛び散っていました。
不貞の現場をその目で見たというのに、そしてわたしが他の男の精気を吸ってしまったというのに、どこまでも夫の声音は優しかったのです。
――けれど、見開かれた黄金の瞳だけは、一切笑っていませんでした。
深い嫉妬と、どろどろとした暗い独占欲が、その瞳の奥で渦を巻いて燃え盛っているのが分かります。
それが、凍りつきそうなほどに怖かったのです。
怒鳴り散らされたり、打たれたりする方が、どれほど心が楽だったでしょうか。
レインハルト様は、他の誰に対してどれほど残酷な振る舞いをしようとも、このわたしにだけは、決して狂気的なまでの優しさを崩そうとはしないのです。
「……君は悪くないよ、シャル。……すべては、僕が帰るのが遅かったせいだ」
彼はわたしの頬を撫でていた手を離すと、静かに立ち上がりました。
「ひとりで、寂しかっただろう? 苦しかっただろう。……ごめんね、シャル。もう大丈夫だからね」
そう囁きながら、彼は血に濡れた軍服のボタンをゆっくりと外し始めました。
バサリと、重厚な軍服が床へと忌々しそうに脱ぎ捨てられます。
それはまるで、彼が背負っていた戦場の正義や、軍の指揮官としての顔を脱ぎ捨てる儀式のようでした。
血の匂いを纏った冷酷な死神は、その外套を脱ぎ去り、わたしだけを溺愛する狂気の夫へと戻っていくのです。
軍服の下の白いシャツ一枚になった彼は、再びベッドへと膝をつき、怯えて丸くなるわたしを長い腕でそっと抱き寄せました。
彼の身体から放たれる、深く甘い、圧倒的な魔力の気配。
ライゼン様のものとは比べ物にならない、わたしの淫魔の血肉が最も欲し、これなしでは生きていけないと刻み込まれた、絶対的な『毒』の温もりでした。
「んっ……あぁ……っ」
その途方もない熱に触れた瞬間、わたしの身体は恐怖よりも先に歓喜の悲鳴を上げ、勝手に甘く蕩けていくのを感じました。
わたしは彼の腕の中で、ガタガタと震えながら彼を見上げることしかできません。
「大丈夫。あの時みたいに、君の身体をすぐ綺麗にしてあげるからね」
レインハルト様は、ひどく愛おしそうにわたしの薄紫色の髪に口づけを落としました。
『あの時みたいに』、その言葉は、もうとうに忘れてしまった記憶を僅かに呼び起こします。
リオンが生まれたばかりの頃、男たちに攫われ、わたしはレインハルト様に「綺麗に」してもらった……、ような気がします。
思い出そうとしても、記憶が霧に包まれたように、開け放つことが難しい。
はっきりしていることは、わたしの身体の奥底まで入り込んだライゼン様の魔力と痕跡を、彼自身の強大な魔力で強引に上書きし、焼き尽くすという宣言でした。
わたしは、彼から与えられる『赦し』という名の、絶対的な支配の鎖を首に巻きつけられているのだと気づきました。
わたしが他の男に身を委ねた罪すらも、彼は「自分が遅かったからだ」「餌を与えておいたのだから仕方ない」と、すべてを自分の手のひらの上の出来事として処理してしまうのです。
わたしから罪悪感も、贖罪の機会も、自立する意思さえも、すべてを奪い取っていく。
わたしはただ、彼の用意した黄金の檻の中で、彼から与えられる愛と魔力を貪るだけの、籠の中の鳥に過ぎないのです。
それでも、彼の腕の中に抱かれていると、わたしはどうしようもなく安堵してしまうのでした。
わたしはこの恐ろしい夫の愛がなければ、生きていくことができないのですから。
「シャル」
耳元で、彼がひどく甘く、鼓膜を溶かすような低い声で囁きました。
「イリスを出産した後にかけていた避妊の魔法も、今夜で解いてしまおうか。……ね」
その言葉の意味を理解した瞬間、わたしの身体はビクンと大きく跳ね上がりました。
彼は、わたしが二度と他の男に目を向けられないように、そして物理的にもこの檻から一歩も出られないように、新たな命という枷をわたしに嵌めようとしているのです。
……それはあまりにも残酷で、そして底なしに甘い、逃げ場のない呪いでした。
部屋の隅では、頭から血を流したライゼン様がまだ意識を失って倒れています。
その惨状を視界の端に映しながら、わたしはレインハルト様の胸にすがりつきました。
もう、後戻りなどできません。
わたしは震える声帯から、最後の一滴の意思を絞り出すようにして、彼に懇願しました。
「……あなたの妻で、いさせてください」
「ああ、もちろん。君は永遠に、僕だけの可愛い妻だよ」
満足げに微笑んだ彼の唇が、わたしの唇を深く、息もできないほど強く塞ぎました。
流れ込んでくる莫大な魔力の奔流と、脳髄を焼き切るような圧倒的な快感。
わたしは彼に与えられる絶対的な支配の中で、恐怖と恍惚に溺れながら、ゆっくりと意識の暗闇へと落ちていきました。




